「W3(ワンダースリー)」の放送は1年ほど続きました。〔昭和41年(1966)6月27日まで放送〕
このころの虫プロはたいへんな忙しさですから「W3(ワンダースリー)」が終わったあとも
あれこれといろいろ仕事は尽きません。
しかし中でもやはり印象に残るのはたった1話ですが私も「鉄腕アトム」を手掛けた

ことでしょう。

「アトムは歴史的作品だからタクさんもやっておいた方がいいよ」

実は「W3(ワンダースリー)」が終わったころ、虫プロ内に私にこのような声を掛けてくれた
ヒトがいたのです。

何十年も経ってみると、これは実際その通りで、今に至るも「アトムを作ってました」と言うと
特に一般の方には実に通りが良い(笑) アレコレ説明するよりその一言で完全に理解、

納得して貰えるのでまことに重宝しているのです。


その後は「サザエさん」のように永続的な作品もあるとはいうものの「鉄腕アトム」もテレビ
シリーズとしてはかなり長い部類で、昭和38年(1963)のお正月から41年の年末までぴったり
4年間も続いています。
私個人に照らせば、38年の1月にはまだ再度の学生だったのが、岩波へ行って、
テレビ動画(株)へ行って、虫プロに入って、「W3(ワンダースリー)」を終わって、
まだやっている。
妻の酒井一美にとっても東映にいたのが、私と結婚して、東映を辞めて休養して、

虫プロに入って、「アトム」に参加して、辞めて、長男を生んで、翌年には長女も生んで、

まだやっている。
実に長い(笑)
二人にとってはちょうど人生の激動期の作品でもあるわけです。


4年目も後半となると原作のエピソードは、連載がまだ続いているとはいえ、あらかた

使いきってしまっていてオリジナルストーリー中心になってきています。誰かが書いた

お話をやっても面白くありませんので自分でオリジナルの脚本を書くところからはじめました。

オリジナルストーリーにも、ある程度もう、カタのようなモノが出来上がっています。
せっかく遅くなってから新たに参入するのですからいまさら既に誰かがやったようなお話を
やっても仕方ありません。むしろ、ここまでに確立しているアトムっぽさを裏返して、

アトムがアトムっぽくないものと対決するお話にしよう。
そうして出来たのが「おばけは夜来る」というお話でした。

アトムが、未来、科学、メカ…そういうアトムっぽいものの対極と言える「おばけ」と

対決するお話です。(第186話、昭和41年10月29日放送)



このころやった作品としては「展覧会の絵」も印象深い作品です。

「展覧会の絵」はムゾルグスキーの同名の名曲からインスピレーションを得た

アニメーションでいわゆる劇場(映画館)公開用作品ではない虫プロの自主製作作品

ですが、40分近くもある中編作品です。「虫プロの自主製作」。要は虫プロと言う会社の

商売ではなく、手塚さんが作りたくて作った作品と言うことです。

ムゾルグスキーの曲そのものが展覧会で見た複数の絵から着想を得たオムニバス的

構成の曲ですが、このアニメーションもムゾルグスキーの着想そのままに展覧会の絵を

軸にしたオムニバス構成を取るアニメーションです。パートごとに分担したアニメーター

同士の競作にもなっているわけです。
この作品では、競作部分に一アニメーターとして参加するだけでなく、冒頭の実写部分の

手配とか全体に係わる形でいろいろとやりました。

この作品は、今になって考えてみると、前回手塚さんが求めていたのではないかと

書いた「みんなでわいわいと作る」、意見を出し合った結果、自分一人で考えていた

ものからすれば思いもかけないものが出来上がる、そういうことを自ら具現化したもの

なのではないかなあとも思うのです。

参加アニメーターの中に「伴俊作」という名前があるのも面白いですね。「伴俊作」って
「ヒゲオヤジ」の本名のはずなんですが(笑)


そんなこんなで「展覧会の絵」もどうにか完成したころ、私は東映時代の同期の

小山礼司さんから
「中島源太郎という映画プロデューサーがアニメーターを探している。ちょっと会ってみて
くれないか?」というお話を頂いたのです。虫プロでは「鉄腕アトム」も終わろうとしていた
昭和41年の末から42年の初めごろのことでした。