さて、そんなわけで昭和40年(1965)6月6日、「W3(ワンダースリー)」はどうにかこうにか
フジテレビ系にて放送を開始することが出来たわけです。
シリーズが開始するにあたって、私の位置付けは「チーフディレクター」ということに

なりました。
要するに「シリーズ監督」ということです。

なんでもこのとき私が「チーフディレクター」になったことこそがテレビアニメーションの
シリーズ監督の起源とする説があるそうで。
たしかに、何度か書いているように昭和30年代のアニメーションでは劇場用でも「監督」は
いないのが普通でした。東映動画の長編作品でも監督はいません。「演出」が

アニメーターのリーダーを意味していました。
「ドルフィン王子」の時にはすでに私は「ドルフィン組組長」などと呼ばれてはいましたが、
これはもちろん正式な役職ではなく(笑) 単に現場のリーダーをそう呼んでいただけですし、
いっぽう「鉄腕アトム」では漫画同様はじめから「手塚治虫の鉄腕アトム」であることが
あまりにも当然すぎて、手塚さんを含め特に「監督」という役職は立てられていませんでした。

虫プロスタッフの立場で見ると手塚さんが少々強引に大外から引っ張ってきた人物を

それまではいなかった参謀役に立てて、虫プロの人間だけではなく、なにやらいろんな

ところからいろんなヒトをわらわらと引っ張って来て、よってたかって作っている格好です。
そもそもこの「W3(ワンダースリー)」、全体的にバタバタ、ワイワイと騒がしく、良く言えば

冒険的に、悪く言えば乱暴な作品作りだったと言えましょう。

しかし、「鉄腕アトム」で既にテレビ用アニメーションの作り方を確立していた手塚さんが
こんな乱暴な体制作りでテレビアニメを作らなくてはいけなかった理由は

なんなのでしょうか?
考えられる一つ目の要因はこの当時の虫プロ内の情勢です。

当時、虫プロは「鉄腕アトム」に代わるエース的な作品として虫プロ初のカラー

アニメーションシリーズの企画を進めていました。
「ジャングル大帝」です。
もっとも「アトム」の後番組というわけではなく、「アトム」は継続しながら別に準備を進めて
いくカタチでした。

それによって虫プロのアニメーターの主力勢は「ジャングル大帝」に集中するかっこうに

なって、その他の手勢が不足する状態になっていたのは事実です。
しかし、それだけではなく「ジャングル大帝」の制作体制の構築にはアニメーター側の

ある「意図」が込められていたのです。それは「アトム」での制作工程の各段階で

手塚さんがチェックするようになっていた流れから手塚さんを「外す」ということでした。
「鉄腕アトム」の制作では漫画の原稿作成の手順そのままに各段階で全て手塚さんが

直接チェックする体制になっていたのです。まさに「手塚治虫の鉄腕アトム」だったのです。

しかし多数の漫画原稿も抱える手塚さんはとても忙しい上に、アニメは漫画原稿の

作成よりもずっと工数も関わる人数も多く、その結果「アトム」では手塚さんの

チェック待ちでしばしば大人数の関わる工程が止まってしまう現象が起きていました。

これで週一アニメが複数に増えたら工程的に破綻してしまうことは目に見えています。
というわけで「ジャングル大帝」では結果的に手塚さんをスルーしてコトが運ぶように

段取りが作られていました。後世、虫プロは「手塚治虫の手を離れたアニメーターが

暴走して潰れた」などと評されることもあるようですが、その始まりはこの時に

根ざしていたと言えるのかもしれません。

そんなわけで、手塚さんは虫プロ内で何か新しいことに手を付けたくてもむしろ

手勢がない状態にあったわけですが、それにしても虫プロの中にも大勢のアニメーターが

いたわけで、わざわざ大外から私などを引っ張ってくる必要などなさそうなものです。
単にアニメーションの技術がある助手役が欲しいだけならば、虫プロ内で声を掛ければ
「ジャングル大帝」を放り出してでも手塚さんのやりたいプロジェクトの方に馳せ参じる
ヒトもいたのではないでしょうか。

なのになぜ、わざわざ杉山卓だったのでしょうか?
手塚さんはそのあたりのことは語らなかったので、ここから先は私の推測になります。


その前に、この文章を読んで頂いている読者の方々のうち、特に手塚治虫を深く

研究されている方や実際に手塚さんと接点があられた方々がもしかしたら既に

抱いているかもしれないある「違和感」のお話をしておきましょう。

「手塚先生を『さん』付けで呼ぶ人は珍しい」

実は以前、私にこのような指摘をしてくれた人がいたのです。
なるほど、そういえばみんな手塚さんを「先生」と呼んでいます。
業界慣行的には漫画家は新人でも独り立ちすれば編集者には「先生」と

呼ばれるようです。
なにしろ、あの手塚治虫ですから漫画業界的には先生中の先生なワケでこれはごく

当然なことでしょう。
これが事務方の人だと「社長」となります。

しかしそういわれてみれば、私は当時から口頭でも手塚さんには「手塚さん」と
話しかけていました。ですからこの文章もそのまま「手塚さん」です。

手塚さんの私への呼びかけも「タクさん」です。
手塚さん特有の呼びかけとして有名な「杉山氏」とか「タク氏」なんていう呼び方は
手塚さんからは一度も聞いたことはありません。

実は私が親に付けてもらった名前は「卓」と書いて「たかし」と読むのですが、
仕事上での読み方は東映時代から「タク」で統一しています。
たぶん東映動画に入社した時点での自己紹介では「『すぎやまたかし』と申します」と
自己紹介したはずですが、酒井一美が入社した頃には既にすっかり「タクさん」で
通っておりました。おかげで他の呼び方をする人はアニメの世界にはあまりいません。

そもそも映画の現場では「監督」はいますが、「先生」と呼ばれる人はそんなにいないし、
アニメのスタジオともなるともっと「先生」には縁遠い感じなので私的には自然と

そんな感じだったのですが、虫プロには東映から来たアニメーターも大勢いたので、

もしかしたら私は特段に空気の読めないタチだったのかもしれません(笑)
しかし、どうもそのあたりに手塚さんが私を手元に置いて置きたがった理由もある

ような気もするのです。

私が思うに、手塚さんがアニメーションに求めていたもの、それはこの文章では

「ドルフィン王子」のあたりから何度も出て来る「みんなでわいわいと作る」だったのでは

ないか、そんな気がします。

手塚さんは漫画の世界では常に孤独のトップランナーだった一方、アニメーション作りは

全ての工程を一人でこなすのは到底難しい集団作業、そこに手塚さんが

求めていたのは「意見を出し合って自らも刺激を受けることのできる共同作業」

だったのではないかという気です。
しかしそうした共同作業は手塚さんにとっては従前の虫プロ内ではかえって

やりづらい部分もあったのではないかと思うのです。それは虫プロもトキワ荘同様、

濃厚な手塚ファンが大勢を占めていたからです。
「ジャングル大帝」の件も単に作業工程からは外れてもらうだけで、手塚さんと

ゴリゴリやりあうのではなく祭り上げて仰ぎ見るカタチにしたいという感じがします。

みんな手塚さんと意見を戦わす気はなかった、というか出来なかったのかもしれません。

皮肉なことですが、手塚さんを「漫画の神様」と仰ぎ見る人たちとは、手塚さん的にも

丁々発止がやりづらいうえに、発想自体も手塚さんに影響されて似ているので

面白くなかったのではないか、
そしてそんなときに、たまたまあさっての方角を向いている私が目について、

手塚さんにとっては刺激的だった。

そんなことだったのかなあなどと考えているのです。