手塚さんから集英社への電話の内容、それは私の漫画家化への「待った」でした。
私はあんまり人間関係などでは驚いたりしない方らしいのですが、これには
さしもの私も多少びっくりしました。
なにしろ手塚治虫が突如、私が漫画家になってしまうことに「待った」を
掛けてきたのです。
私と手塚さんは東映「西遊記」の三蔵法師の打ち合わせで話し合った時以来、
ベフプロの件の交渉でちらと顔を合わせたくらいで、じっくり話をしたことは
ありませんでした。
妻の酒井一美は前年まで虫プロに在籍し、手塚さんの隣の席に座っていたことも
ありましたが、やはり忙しい手塚さんとは雑談をするような機会もなく、手塚さんが
自分の素性やその夫について把握していたかはかなり怪しいと言っています。
連絡を受けた私が急遽虫プロへ出向くと、私を出迎えた手塚さんは
私に向かってこう言いました。
「漫画を描く人は幾らもいるけど、アニメーションを描ける人は貴重です。
あなたの様な人にはちゃんとアニメーションをやって頂きたい」
とにかくこの鶴の一声で急転直下、私は虫プロ入りすることになったのです。
とりあえず集英社での漫画連載プロジェクトは中止。
聞いたところではどうやら手塚さんは長野さんにも電話でほぼ同様のことを言っていた
らしいのです。
しかし、当時すでにそのような呼ばれ方をしていたかは存じませんが、
「漫画の神様」とまで呼ばれる人物に「漫画を描く人は幾らもいる」と言われた
漫画編集者はどうすればいいのでしょうか(笑)
テレビ動画(株)の「ドルフィン王子」のプロジェクトからも唐突に抜けることになって
しまいました。そう、実は私は「がんばれ!マリンキッド」や「海底少年マリン」の
アニメーション実製作にタッチしていないだけでなく、既に「ドルフィン王子」の段階で
最後の最後まではちゃんといなかったのです。
この頃のテレビアニメの納品は完パケフィルムとなる訳ですが、どうしても印刷、配送という
工程からは逃れられない漫画や、やはりプリント、配給という工程のある劇場映画と違って、
テレビは、極端に言えば、放送当日の放送時間に完パケフィルムさえキー局にあればよい
という部分があり、テレビアニメの製作は放送ギリギリまで続くことも多いですから、
4月放送の「ドルフィン王子」の現場から私は最終ギリギリの1~2ケ月前に
突如消えたような形でもあった訳です。
既に目鼻はついていたとはいえ、追い込みでは私の知らない苦労もいろいろとあったとは
思うのですが、しかしこの件で私とテレビ動画(株)の会社やスタッフとの関係が悪くなった
ということもありませんでした。実際にこのあと海外提携作品「ジョニー・サイファー」などの
テレビ動画(株)作品の仕事もやっています。
「タクさん凄いねえ。手塚治虫に呼ばれたなら仕方ない」そんな感じで、この時代、手塚さんの
威光というのはそれほど強かったのです。
いっぽう集英社とのオハナシもいろいろと立ち消えになってしまった訳ですが、そもそも
集英社的には私とのオハナシの位置付けはどのようなものだったのでしょうか。
前述の通り、当時、手塚さんはまだ長野さんの「少年ブック」誌で「ビッグX」の連載を続けて
いました。手塚さんは「ビッグX」完結後も同誌で連載を持ち、翌昭和41年には「フライング
ベン」という新連載を始めていますので、私はその当時は、集英社的には手塚さんの
まだ見ぬ次作(=「フライングベン」)を想定して動いていたのかなあなどと漠然と
考えていました。
ところが息子(丈彦)が指摘するところからいろいろと面白い流れが見えてきました。
まず虫プロが進めていた企画との関係です。
前回、当時虫プロは、「アトム」「ジャングル大帝」「新宝島」の他にもう一つの企画を
進めていたと書きました。それは「ナンバー7」という企画でした。
「ナンバー7」はもともと手塚さんの同名の漫画のアニメ化案からスタートした企画だったの
ですが2回にもわたる全面変更の結果、最終的に「W3(ワンダースリー)」になった企画です。
「ナンバー7」はもともと「日の丸」という雑誌に昭和36年(1961)から38年まで連載された
漫画でしたが、「日の丸」誌は集英社の雑誌だったのです。
「日の丸」は「少年ブック」の弟分的位置づけの月刊誌だったようですが38年の2月に休刊と
なり「少年ブック」に統合されました。漫画「ナンバー7」はこの時に終了になっています。
西村繁男さんはもともと「日の丸」の編集者だったのが同誌休刊で「少年ブック」へ
移られたそうですし、手塚さんも「日の丸」休刊の38年中に統合以前は連載していなかった
「少年ブック」に「ビッグX」の連載を始めていますから、言わば「ナンバー7」は「ビッグX」の
前作とも言える関係にあったようです。
ですから長野さんや西村さんにとっては「ナンバー7」は旧知というか「ウチの作品」であった
ということになります。
直接長野さんに聞いたわけではありませんが長野さんのベフプロの構想とは無関係で
あったということは考えにくいでしょう。
しかし、残念ながら「ナンバー7」はあとで記す度重なるトラブルで漫画「ナンバー7」からは
どんどん遠ざかっていき、最終的には全く違った作品である「W3(ワンダースリー)」になって
しまいました。このあと手塚さんは「W3(ワンダースリー)」の漫画版を当初講談社の
「少年マガジン」に連載します。この時点で集英社的には一つ「アテが外れた」可能性があります。