まだ息子が子供だった頃のある日、我が家にあった三角定規を見て

騒ぎ出したことがあった。
たまに比例を取ったりする必要があるのでアニメーターも三角定規は常備している。
三角定規が家の中にあること自体は我が家の場合別段おかしなことではない。
しかしその古びた三角定規には小さな付箋が貼ってあり、

そこに「手塚」と書いてあると言うのだ。

なるほど、他に手塚という人も知らないし、この三角定規は手塚治虫さんの

ものである可能性が大きい。
なぜこれが我が家にあるかを考えてみると、一番可能性が大きいのは、

酒井一美の虫プロ時代に
道具箱に紛れ込んだ可能性が大きいという結論に達した。なんとなれば、虫プロ時代、

酒井一美の席の隣に手塚さんの席があったからである。


株式会社虫プロダクションは周知のとおり一度倒産していますが、

その後、組合を中心に再建され、現在も虫プロダクション株式会社として

他社下請けを中心に盛業しています。同社は再建時、旧虫プロの資産を
丸々受け継ぐことができたので、虫プロのスタジオは旧虫プロが「鉄腕アトム」を

作っていたころの雰囲気もそのままに現在も健在です。

当然、酒井一美が入社した頃も虫プロのスタジオはその建物だった訳ですが、

その当時はむしろあの建物は虫プロの「一部」であったとも言えるのです。

それは当時、虫プロの隣には漫画御殿とでも言うべき手塚さんの自宅が聳えており、

両者は一体となって機能していたからです。
虫プロの倒産を含むドタバタの時期に手塚さんはこの邸宅を手放してしまったので

こちらの方は現在は建物も現存していません。なんでも跡地には一般民家が9軒も

建っているとのことで、往時のこの屋敷の壮大さを示しています。

お殿様のお城は壮大ですが、あれは単なる邸宅ではなく、軍事施設でもあり、

県庁や市役所の機能もあったりしますから住居としては便利なことばかりではありません。
実はあのころの手塚邸も似たようなもので、漫画に関するスタジオは

手塚邸内にあったのです。
手塚ファンには有名な、手塚さん本人の机のある2階のスタジオに舞台のような

吹き抜けがあって、階下にはアシスタントたちの机や編集者たちの待機所があり、

2階から原稿を吊り降ろしていたというのはここのことです。


さて、即決で採用された酒井一美ですが、席は虫プロの方のスタジオの2階の奥の方に

しつらえられました。
なにしろフル回転中の虫プロですから、新たなメンバーの机が置ける場所が端の方に

なってしまうのは
まあ、事情として理解できるのですが、なんとその席の隣には「アニメーター」手塚治虫の

席があったのです。

手塚さんのアニメーションに対するこだわりの発露として、一アニメーター手塚治虫の

席が虫プロのスタジオ内に用意されていた。
なんとも粋な話ですし、実際その席が置かれた経緯や趣旨はその通りだったのは

間違いありませんが、酒井一美の話すところでは、少なくとも自分が隣に

座っていた当時の様子はそのイメージとは少々異なっていたようです。

「手塚さんが動画描いてるのは見たことないねえ」
隣席にいた酒井一美は語ります。
「手塚さんはちょくちょく来てたけど、いつもそこに置いてあるものを

しばらくごそごそいじってから机の下に潜り込んで寝てた」

一般的に人は休息し、リフレッシュするために我が家に帰りますが、

この頃の手塚さんにとっては自宅こそが職場と言うか戦場であり、

24時間複数の編集者が待ち受けていたのが実情です。
そんな手塚さんにとってもっとも安心して休息できるのが、アニメスタジオの奥の方の
アニメーター席だったということになりましょうか。

スーパースターの実情は実に厳しいものだったと言うことかもしれません。


さて、経験者として虫プロに迎えられた酒井一美に期待されたのは、

即戦力としてもさることながら指導者としての役割も大きかったようです。
東映のアニメーターから見ても虫プロの技術力は唯一ライバルたりえる存在

という認識があったようですが、
アニメーションの技術には画才うんぬんよりもむしろ単純な科学としての部分があり、
こうした技術は先人に習えばそれほど習得は難しくなくても、

独学で学ぼうとすると非常に難しい部分があったりします。

手塚さん個人に関して凄かったのは手塚さん自身は独学でこうした技術をある程度

会得していたことですが、忙しい手塚さんが虫プロの全員にこうした技術を

伝授している時間はありませんし、結局虫プロの技術力はかなりの部分が

東映からの移籍組によって支えられていた部分もあったのです。
虫プロの人材の主流であった手塚さんのアシスタント陣は漫画界のエリート集団の

ようなものでしたので、画才的には恵まれた人も多かったのですが、

アニメーションの基礎的技術については各人デコボコでした。
酒井一美に期待されたのはこうした部分への指導も大きかったようです。

酒井一美が虫プロで指導した若手としては坂口尚君などもいたようですが、

むしろ漫画家としての実績で有名なところが当時の事情を伺わせます。
動画描きとしては「鉄腕アトム」第71話「地球最後の日」の原画を担当したあたりが

印象に残る仕事だったようです。

しかし、酒井一美の虫プロ生活もそれほど長い期間ではありませんでした。

おなかに子供が出来たのです。

この子供とはすなわちこのブログを手伝ってくれている息子です。
前回の東京オリンピックが大々的に行われていた頃(昭和39年・1964秋)、

おなかが大きくなってきた酒井一美は虫プロを退社しました。
「『新宝島』もけっこうやってたのに最後までいなかったから

スタッフロールに入ってない」というのは
本人の不満の弁です(笑)

翌年2月に生まれた息子を虫プロに披露しに行った時のものと思われる写真には
整髪料か何かで髪の毛を2ヶ所、三角形に立てた赤ん坊が写っています(笑)