さて、昭和37年(1962)春、私が武蔵美に行くために東映動画を辞めてしまっても、
当然ながら酒井一美は東映に残っています。
同年秋、私と結婚してからは、しばらくは仕事上の名前も「杉山一美」にしていましたが、
アニメーターを続けていく上で「杉山さん」が同じ家に二人いても何かと紛らわしいことも

多いので後年には仕事の名前は「酒井」に戻しています。

私が武蔵美を卒業する昭和38年(1963)あたりからの数年間は、

二人とも人生の急流期というか、重要な出来事が次々と起こり、

しかもそれぞれの事件がまた複雑に関係しているので、

慎重に整理しながら思い出していかないとごちゃごちゃになってしまいます(笑)
ちょうど日本のアニメーション界にとっても「鉄腕アトム」によって新しい世界が

開けた時期であったし、ひいては日本全体にとっても前回の東京オリンピックをやったり、

新幹線が開業したりといった飛躍の時期であったので、

そういう世相を反映したものでもあったのでしょう。

とにかく、宮崎駿君が新人として東映動画に入って来たのが昭和38年春と

はっきりしているので、それを迎えた側の酒井一美がその時点でまだ東映動画に

いたことは間違いない(笑)
しかし酒井一美は岩波映画で社会人に復帰した私と入れ替わるように同年中に

東映動画を辞めてしまいます。
別段もうアニメーターを辞めてしまい、専業主婦になるとか、そういうことでもなく、

とりあえず「東映を」辞めて、少し休養という感じだったようです。

不安定な環境に悩む昨今のアニメーターからすれば、社員アニメーターの地位を

ぽいと捨ててしまうことには違和感があるかもしれませんが、この時期、

東映を辞めてしまうアニメーターは実は多くいました。

酒井一美はそのあたりをこのように言っています。
ちょうど私が辞めた昭和37年(1962)あたりを境にして、東映動画内の雰囲気が

大きく変わってしまったと。
これは当然、私が辞めたこととは関係なく、やはり虫プロの出現によって、

アニメーターにとって東映の存在が相対化したことが関係していたようです。

東映にしてみればこの時期、給料まで払いながら養成した多くのアニメーターが

辞めてしまったかっこうですが、
そもそも東映動画はこの当時も赤字会社でしたから、東映のアニメーターは

正社員でしたが給料は比較的低く抑えられていました。
一方虫プロは、これは誤解も多いのですが、当時の経営状態は東映動画より良好でした。
おかげで当時の虫プロの給与は東映よりもかなり良かったのです。

「虫プロが鉄腕アトムの時、フジテレビから貰う制作費を安く設定したからその後の

アニメ界は貧乏になった」
という誤解をしているヒトがけっこういるようですが、これは違います。
確かに1本ごとに局から入る製作費は低めに抑えられていましたが、

これは作品の「放映権料」のみだったからで、
虫プロは作品に関する権利は全て自分で留保していました。特に手塚作品の場合、

虫プロは漫画家手塚治虫の個人事務所でもありましたから、

放映権以外の権利を全面的に有しているわけです。
虫プロは作品のマーチャン(商業展開)も全て自ら取り仕切っていましたから、

ちゃんとトータルでは黒字になる計算の上だったのです。

東映のアニメーターから見て虫プロが魅力的に見える部分はお金だけではありませんでした。
虫プロは手塚さんとそのアシスタント勢を拡大する形で発足しましたから運営の主導が

絵描き側にありました。
以前私は、東映はアニメーターの採用に当って純粋に絵描きとしての能力だけを見て

採用していたと書きました。
それはそのとおりなのですが、そのことは東映という会社が「採用」に当って学歴などを

頓着していないということでもありません。

実は映画会社も監督や演出家の候補生を募集する際は結構高学歴の学生を
選抜していました。

むしろアニメーターを採用する時、絵描き能力しか判定基準にしないのは役者を

オーディションで選抜するのと同じような感覚であったものと思います。
昭和30年代のアニメーション映画には「監督」がいなかったとも書きましたが、
要するに当時の東映には「監督というのはもっと偉くて、アニメーターなんぞとは

次元の違うもの」という感覚があったのも事実なのです。

まあ、これはアニメーターの方もそうなのですが。
会社丸ごと絵描き主導という意味で虫プロが魅力的だったアニメーターもいたのは

間違いありません。

また酒井一美は東映動画の雰囲気が変わった要因の一つとして組合運動の激化も

あったと言います。
組合運動というと私などはついつい「旧知の人物」がビラを配ったり新人を熱心に

勧誘している様を思い浮かべて
しまいますが、東映動画における組合運動の中心人物は大塚康生さんでした。

その後のアニメーター一般の経済的不遇を思えば、この組合運動も大切な要素を

はらんでいたことは間違いないことでしょうが、このあとロックアウトなど激しい闘争も

あったわりにあまり大きな成果が上げられなかったことは
やはり東映動画が赤字会社であり当時はまだ東映本体に依存する存在でしか

なかったことや、
一般的な工場などと違ってアニメーターの気質と組合闘争にそりが合わない部分も

あったからのようです。
「定時になったらさっさと仕事を止めて帰れって、それじゃ絵なんて描いてられないし…」
そう言って組合の方針に違和感を唱えるアニメーターは少なくなかったようです。

ともあれ、東映を辞めた酒井一美は休養期間中は運転免許を取得したりなどしていました。
まだ、女性ドライバーが「姫ドラ」などと言われ珍しかった時代です。

今風に言うと「自分磨き」でしょうか(笑)
そして、半年ほどが過ぎ、休養にも飽きると、多くの東映を辞めたアニメーターと同じように

虫プロの門を叩きました。
紹介してくれたのは坂本雄作さんです。

即決でした。もともと虫プロというか手塚さんは来るものは拒まず的体質がありましたが、

ましてやこの時期は毎週毎週「鉄腕アトム」を1本製作するという前代未聞の大車輪の

まっただ中ですし、猫の手も借りたい状況に即戦力の経験者、それも折り紙付きの

東映出身者ともなればまあそうもなりましょう。

こうして酒井一美は富士見台の虫プロに通うこととなり、これが我が家と虫プロとの最初の

接点となりました。
のちに私も虫プロに所属することになりますが、つまり東映でとは逆に虫プロ社員としては

酒井一美の方が先輩ということになるわけです(笑)