昭和35年(1960)の東映動画の劇場用長編アニメーションは「西遊記」でした。
「西遊記」といえば、この東映作品以降にもアニメーションに限らずさまざまな形で
何回となく作品化されたり翻案されたりしているアニメやドラマ向きの古典の代表のような
お話ですが、このときの東映西遊記は手塚治虫さんの漫画「ぼくの孫悟空」を

原作とするというふれこみとなっていました。

しかし「ぼくの孫悟空」と東映の「西遊記」はキャラクターのデザインなどが大きく異なっており
作品の雰囲気もかなり違っています。
実は後年虫プロも「ぼくの孫悟空」を原作とするとする「悟空の大冒険」という

テレビアニメシリーズを作っていて、この作品も、

キャラも雰囲気も両者のどちらとも全く違っています。

もちろん、どの作品も三蔵法師と孫悟空、猪八戒、沙悟浄らおなじみのメンバーが

立ちふさがる妖怪変化などを退けながら天竺を目指すというお話の骨子は

変わらない訳ですが、それはもともとの西遊記からそうなのですから

全く関係のない西遊記作品でも同じなので、

わざわざ『手塚治虫の「ぼくの孫悟空」原作』と銘打つ意味が

よくわからないということにもなります(笑)

その意味では、東映が手塚漫画をアニメ化するといった感じよりも、

今日的な言葉で言えば東映動画と手塚治虫の「コラボレーション企画」といった方が

近いような意図だったのかもしれません。
「ぼくの孫悟空」はあくまで参考素材。

少なくとも東映側にはそのような意識があったことは疑いないようです。

この時期、既に手塚さんは漫画界の第一人者としての圧倒的な地位を築いておりましたが、
迎える東映側も長編アニメーションを毎年安定して製作する体制を築き上げており、
いわば創作の世界でそれなりに作風や方法論を築き上げている両者が

正面からがっぷり四つに組むような構図もあったようです。

製作開始当初には討ち入りの顔見せのような行事もあったはずで、

それが私と手塚さんとの初めての出会いでもあるはずなのですが、

正直言ってよく憶えていません。
この時代は忙しい手塚さんの人生の中でも最も忙しい、

それこそ複数の原稿待ちの編集者を常に連れ歩いていたという伝説の

真っ只中の時代ですから、セレモニー的な場であれば手塚さんも
ちらと顔見せするのがせいぜいでしょうし、こちらもまだまだ大勢の中の一人である上、
普段から映画スターを中心とする有名人がうろうろしてるのにも慣れていますから
「ふん、あれが手塚治虫か」程度のもので、印象に残らなかったものと思います。

忙しくて打合せにも製作にも充分な時間の取れない手塚さん側からは

腹心のアシスタント・チームから二人の青年が

東映動画に出張してきてスタッフとして常駐しました。

そのうち一人は、これがきっかけでそのまま東映動画に残り、我々の仲間となりました。

月岡貞夫君です。
彼はむしろ一般にはアニメーターとして有名かもしれません。

月岡君の実家は映画館で、彼はもともと映像に強い関心を持っていたそうで、

すぐに凄腕のアニメーターとして実力を発揮するようになりました。

いまひとりの青年も「西遊記」後も東映動画残留を希望したそうですが、

折しも彼は独立の漫画家としてまさに売れ出す寸前だったので、

周りの勧めもあってそのまま漫画家の道を進みました。
石森章太郎(のち石ノ森)君です。石森君は月岡君と違って東映入りすることは

ありませんでしたが、
この作品をきっかけに東映動画のみならず東映本体とも大きな関係を築き上げ、
それが「仮面ライダー」「戦隊もの」という令和の現在でも東映の大きな柱となっている

作品に代表される多くの作品群を生み出したことは皆さまもご存じの通りです。

さて、こうして「西遊記」の実製作が始まると、手塚さん側と東映側の考え方の違いは
やはり、もろもろ大きなものがあったようです。
しかし、ホームの利か、はたまた多勢に無勢か、手塚さん側が妥協を強いられた点が

多かったようで東映西遊記は極めて東映色の強い作品に仕上がっていきました。
結局、手塚さんはこのジョイントから、やはり自分で一から立ち上げないと

自分の思うような作品は作れないという結論に至り、

それが虫プロダクションの設立へと繋がっていったというのが

自他ともに認めるところのようです。

一方、このころの私はアニメーターとしてようやく一番の下っ端は脱したといったところでした。
動画工程ではチーム制が取られていて、私はそのチームのリーダー格でした。
かっちりしたものではないので、必ずしもそのように呼ばれていたわけではありませんが
「杉山班」という言葉も使ったので、まあ、「班長」さんだと思ってもらえば

分かりやすいでしょう。

私は「白蛇伝」に続く2作目「少年猿飛佐助」の時からチームのリーダーとなりました。
リーダーはそれぞれ数人の仲間をグループとして作業を分担するカタチです。
そのときメンバーに獲得したうちの一人であった新人が現在の妻、酒井一美でした。

正式なキャラクターシステムではありませんでしたが、

キャラクターごとになんとなくの分担はあり、
このとき「杉山班」が多く受け持ったキャラクターは三蔵法師でした。
そこで三蔵法師担当として、その性格付けなどについて私と手塚さんで

直接話し合う機会がありました。このときのことはよく憶えています。

東映側の考える三蔵法師は孫悟空らの後に控えるちょっとおちゃらけた

狂言回し的キャラクターでしたが、
手塚さんの考える三蔵法師はもっと真面目で、孫悟空らを的確に導くリーダー的存在でした。
それで私のイメージはと言えば、実は手塚さんのイメージに近い毅然たるリーダーでしたので
その結果、この話し合いでは私と手塚さんはとてもよく話が合ったのを憶えています。

しかし上述のように、東映では手塚さんの主張は通らないケースも各部で多かったようで
どうも私とのこの話し合いは手塚さんにとっても格別印象深いものであったようなのです。
どうやらこの件があったために後年、私は手塚さんから「唐突な御指名」を

頂くことになったようなのですが、それについてはまた後日じっくりと書くことにします。

とにかく、三蔵法師については手塚さんの各方面への主張が比較的通ったものか、

東映西遊記の三蔵法師はかなり毅然としたリーダーで、容姿も凛とした美青年風、
まあ、美青年っぷりでは夏目雅子さんには叶わないかもしれませんが(笑)
イメージ的には手塚さんや私のイメージに近いところに落ち着いたようです。

ところで、その時、どうしてそんなに東映側で私だけが手塚さんと話が合ったのか。

その時点はもちろん、その後手塚さんと仕事をいろいろするようになった頃も

特段考えたことがなかったのですが、
はるか後年になってその理由らしきものがぼんやりと見えてきました。
実は手塚さんと私の頭の中にはある同じ映画があって、

その強い影響力を二人は共有していたらしいのです。
その映画とは「鉄扇公主」というタイトルのアニメーション映画でした。