ところで、宮崎駿君はとても人気者なので、私も彼についていろいろと尋ねられることも
多いのだが、残念ながら私は彼についてアニメーターの立場から語れることはそう多くない。
なんとなれば、私は宮崎君といっしょに仕事をしたことがないからである。
宮崎君が東映動画に入社したのは、私が退社した翌年のことであったし、
日本アニメーションで仕事をしていた時期は被るのかもしれないが、
そのころはもうお互いに監督同士だったので、返って仕事上の接点は少なかったのだ。
私の妻となった酒井一美は、私が東映を離れた後も東映に残り、
宮崎君と机を並べているから、私と宮崎君も彼が東映に入社した当初からの
知り合い同士ではあるのだが、
仕事を通じて交流を持つ機会は今に至るまでなかったのだ。
しかし、宮崎君とはそのわりにはいろいろと縁があるのも事実である。
まず第一に、彼は私にとっては二重に後輩にあたる。
私も宮崎君もともに東京都立豊多摩高等学校の出身なのだ。
宮崎君は私より四つ若いので、高校も私が卒業した翌年の春に入学した勘定になる。
ところが、彼との縁はそれだけでは終わらない。その正体は前回ご登場願った
大田朱美さん、すなわち宮崎朱美夫人である。
実は彼女と私も、高校だけでなく中学の時からの同級生なのだ。
それも単なる同じ学校の卒業生というのではなく、
クラスメートになったこともある旧知の間柄なのである。
彼女も私も中野区立第一中学校出身にして豊多摩高校卒業。
つまり、私と大田さんは、中学・高校の同級生と卒業後別の進路に分かれたあと、
就職先の東映動画でまた出くわした格好だし、
また宮崎君は、会社だけでなく出身高校も同じくする四つ上の先輩と結婚したことになる。
大田さんは大田耕士画伯という著名な版画家の娘であり、一介の酒屋の息子である
当方とは違って絵描きとしてはサラブレッドであった。
もっとも彼女のお父さんは地元中野では、むしろ政治活動家として有名な人であり、
彼女もその娘らしく積極的に自分の意見を表明したり、現場のリーダーシップを
取ったりするのが得意なタイプであった。
彼女といっしょに公募の防火ポスターへの応募を取りまとめたり、
学芸会では彼女らが主導、主演して纏めたお芝居の脚本を私が書いたりした覚えがある。
夫婦なんてどこでもそんなものだろうが、そういった彼女の積極性は宮崎君にも
大きな影響を与えているようにも見受けられる(笑)
しかし、日本中のアニメーターを集めても何百人もいないというこの時分に
同じ高校から同じような時期に3人も固まっているというのも随分な話である。
アニメーターではないがこの頃岡部一彦さんを通じて知り合い、のちに
「海底少年マリン」の原案をともに纏めてくださったSF作家の北川幸比古さんも
豊多摩の先輩であった。ちなみに北川さんの豊多摩の同級生には詩人の谷川俊太郎さんも
いらっしゃるといった按排である。
豊多摩は一応旧制中学に遡る都立高校だが、さほど名門というわけでもないにも関わらず
少なくともこの時分には、なにか特別なものがあったということだろうか。
あるいはこのころのクリエーター界隈は、今と比べればわりと小さな世界でこじんまりと
回っていたということなのかもしれない