ズイヨーは「ハイジ」を製作したあと、経営的な問題から現場スタッフ陣が
一括して独立することになり、それで日本アニメーション株式会社が設立された。
森さんをはじめとする製作スタッフはそのまま日本アニメーションに
移籍するカタチとなったが、制作体制的なものもそのまま引き継がれたので、
「ハイジ」によって確立された森康二流の作風もまた日本アニメーションによって
継承されていった。いわゆる「世界名作もの」と呼ばれる一連の作風である。
私は昭和55年(1980)に「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」を完成したあとは
日本アニメーションとの関係を深めていく流れになったが、
私が特に森康二流の真価を感じることになったのは昭和56年(1981)に
「ワンワン三銃士」の監督をしたときであった。
この作品、私が監督で森さんはレイアウト監修となっているが
この当時の日本アニメーション作品の常のように、
森さんには全般的な監修をしていただいた格好だった。
森康二流は作品作りの「秘法」としてはそんなに面白いものではないかもしれない。
基本的には極めてまっとう。愚直で丁寧、地味で真面目なことを
ただただこつこつとやるということだからだ。
特に「名作もの」の場合、お話はもう決まっているのだし、
アニメーションなのだから極力動きで面白さを伝えねばならない。
美しい画を表現するのでも、一枚絵の美しさとは違う
アニメーションならではの美しさを表現しなければならない。
「ワンワン三銃士」の場合、「三銃士」は他の多くの名作ものの原作と違い、
戦士たちの物語なのでリアル寄りの絵柄にすると絵面が堅くなりすぎてしまうので
人物が犬になっているわけだが、だから当然その犬もリアルな描写ではありえない。
しかし、そのような絵柄で安易に描写を進めると画面が安っぽくなってしまう。
森康二流ではそうした時の対処も実に実直で、幸いにも名作ものには
その物語が生まれた背景となる土地が明確に存在するのが普通なのだから
とにかく現地に行って、丹念に見てくることから始まるのである。
この基幹スタッフによる事前の現地取材は「ハイジ」製作の際のエピソードとして
有名になっているようだが、言わば森康二流を実践するための必要事項となっていたので
「わんわん三銃士」製作の際にも、私たちも現地に出向き、ゆかりの地を
あちこち見て回ることから始めたのである。
実際に現地で、朝起きたらどんな感じなのか、みんなどんなものを食べているのか、
道を歩いたらどんな感じがするのか、そうした「空気」を感じてくるわけである。
「わんわん三銃士」では特に後日、私はこうした森康二流の積み上げの成果を顕著に
実感することになった。
「わんわん三銃士」はネット枠の都合や日本での「三銃士」の知名度などもあってか
まあ、人気はそこそこといった程度のものであったのだが、
欧州で放送したところが向こうでは随分と大人気だということなのである。
その後、私が欧州を再訪した折には、それは事実として実感させられた。
イギリスでもフランスでも行く先々で出会う人々がことごとに「わんわん三銃士」を
知っていてくれる印象なのである。
特にフランスでは、三銃士ゆかりの地として知られるタルブというところで
現地の女の子が「わんわん三銃士」関係者と知るや、習い覚えた英語を駆使して
なんとかコミュニケーションを取ろうと必死になってくれたのが微笑ましく思い返される。
結局「わんわん三銃士」は製作からなんと8年も経た1989年(平成元)にもなって、
スペイン・イギリスの合作で日本アニメーションからの正式なライセンスのもと、
続編が製作されるという結果になった。
近年のネットの発達で私も遅ればせながらその続編を見る機会に恵まれたが、
全てが正編の雰囲気そのままで、エピソードだけ私の知らないオハナシが
展開されているという(私にとっては)不思議な作品に思わず笑みがこぼれた。
「わんわん三銃士」の作品世界にはどうやら「現地」からの異議は出なかった
ということのようだ。
もちろん欧州における「三銃士」という原作が持つ力も預かってのことではあるが、
私はやはり、この作品が国や文化を超える国際性や10年単位の時間を経ても容易に
古びない寿命を持てたのは、ひとえに森さんに構築して頂いたアーキテクチャの力と思い、
感謝しているのであります。