森さんは前に出て目立つことを好まない人だった。
なので記録などからは森さんの業績は見えづらくなっている部分もある。
このことを象徴するのが、非常に多くの作品で主導的役割を果たしたにも
係わらず「監督」としてクレジットされる作品がほぼないことである。

もっとも実は「監督」は昭和30~40年代ぐらいまでのアニメーションには
あまりいなかったという事情もある。
劇場映画では監督不在のものが多く、「演出」が現場スタッフ筆頭になっていた。
テレビシリーズでは同じ意味だが「ディレクター」というテレビ用語が使われていた。

「白蛇伝」で言うと、脚本・演出の藪下泰司さんが近年の資料では
「事実上の監督」という扱いになっているようだが、むしろ職人肌で「演出」の
仕事に集中していた藪下さんに対し、やや裏に回って現場全体の進行を
コントロールしていたのが森さんという感があった。

森さんの功績を一言でいえばそれはアニメーション、特に長編作品における
「アーキテクチャ」の確立であったと私は考えている。
建築で言うところのアーキテクチャとは設計思想とも訳される根本構想のことである。
前出の「もりやすじの世界」所収の森さん本人の記すところによれば、
東京美術学校では兵隊に取られたりであまりちゃんと建築のことを
勉強できなかったと述懐されているが、私は森さんのアニメーションには
建築家としての素養が大きく生かされているように思う。

作品を構築する一つ一つの要素が、趣味や思い付きでなく全体の中でがっちりと
目的や役割を担っていて余分や無駄がなく、シンプルで明快。
そういう事前計画をきちっと立ててからこつこつと組み立てていく。
森さんは常にそうした姿勢で作品に当たり「現場」を組み立てていく役割を
担う人だったのである。

もっとも、私が森さんの真価を実感するのは実は東映時代ではなく、

もっと後年のことであった。
東映時代の私は下っ端の一動画描きの立場でしかなく、森さんと作品作りに関する
意見をやりとりするような立場ではなかったからである。
結局、私はそのままアニメーション作りを辞めてしまった人たち以外では
最も早い時期に東映動画から離れてしまったアニメーターになってしまったので
森さんとの本格的なやりとりははるか後年の日本アニメーション時代のことに
なったのである。

私が東映を離れたあとも森さんは東映動画で長編劇場作品を中心に長く
主導的役割を果たし続けていたが、昭和40年代に入ると徐々に雲行きが
変わっていったようだ。
周知のとおり昭和40年代に入ると映画に変わってテレビの黄金時代が到来した。
映画は娯楽の王様の地位を滑り降り、多くの映画会社も深刻な対応を迫られる
こととなった。
こうした時代の変化は森さんの立場にも影響を及ぼしたようだ。

会社の打ち出す方向性と、流行に乗った派手派手しいものを潔しとしない
森さんの方向性の差異は次第に大きくなり、結局森さんは東映を離れることに
なったようだが、そのあたりの詳細な経緯については、
私はそのころは東映とは離れたところで仕事をしていたので詳しくは知らない。

東映を出た森さんのひとまずの落ち着き先となったのがズイヨーであった。
瑞鷹(ズイヨー)エンタープライズは「ムーミン」に始まる放送枠を持つ企画会社であり、
当初は東京ムービーや虫プロに実製作を委託していたので、その当時は私も
虫プロ製作の「アンデルセン物語」などで関わったこともあったが、
のちに自主制作を企図してスタッフを集めることとし、招聘したのが森さんであった。
このとき森さん招聘の立役者となったのはプロデューサーの佐藤昭司さんであったと
聞いている。

その後森さんがズイヨーに落ち着くとズイヨーには高畑勲君、宮崎駿君、小田部羊一君といった
東映時代に森さんの薫陶を強く受けた面々が集まるようになり、
そうして森流の集大成として作られたのが「アルプスの少女ハイジ」であったと思っている。