さて、お話は私が東映動画に修習生として採用された時分に戻ります。
前記の通り、私たち一般募集に応じての入社者は9名でした。
絵の経験者はいても、彩色をやったことのある人が一人いただけで、
アニメーターとしてはまるっきりの素人ばかりです。
そんなわけで9名は養成班という事で、スタジオの一角に修行の場が設定されました。
この9名の新人たちの教育担当者として充てられたのは熊川正雄さんでした。

で、私たちアニメ修習生も、一応は社員として採用されたので養成中にも給与が支給されました。
現在の薄給に悩む若手アニメーターからすれば随分と贅沢なオハナシに聞こえるかもしれませんが、
月給の額は5000円で(大卒の人でも5500円だったらしい)、これは当時としても
月の部屋代を払えばカツカツといった金額でした。
現在のお金で言えばだいたい5万円といったところでしょうか。

これでは自立しては暮らしてゆけません。
と言って、学生が月謝も払わず、勉強中におこずかいまで貰っているようなものなのですから
会社に申し入れても、とても聞き入れてもらえるものでもないでしょう。

そんなわけで養成班の9名は「共謀」して一計を案ずるところとなったのです(笑)。
「首謀者」は江藤昌治さんでありました。
ある日、江藤さんは名刺を作ってきました。そのカタガキには「ナインアート」とありました。
「ナインアート」もしくは「ナインアート社」は株式会社でも何でもありません。
ただ養成班の仲間が9人いるのでそのように名乗って名刺を作っただけの存在ですが、
なんと江藤さんはその名刺を持って営業に出かけて行き、デザインの仕事を取ってきてしまったのです(笑)。

最初の「仕事」は家畜の飼料を入れるエサ袋のデザインでした。
9人はアニメーション修習の間隙を縫って見事この「仕事」を仕上げ、
得たお金で一同うち揃って繰り出し、一杯やることに成功したのです(笑)。
今よりは万事のんびりした時代であったとはいえ、「会社員」の行状としては
当時でも大問題であったのは間違いありません。

その後会社の方でも薄々感づいて、問題として表面化しかねなかったとも聞きますが
皆が正式なアニメーターとして忙しく仕事をするようになり、給料もまともなものを貰うようになると
「ナインアート」も自然解消してしまいました。

はるか後年(昭和53年・1978)、私は東映動画を辞めてから20年近くたって
「東映動画長編アニメ大全集(上下巻)」という本を書く機会に恵まれましたが、
このとき私の取材に全面的に協力してくれたのが、東映動画に残って製作本部長にまで
出世されていた江藤さんでした。問題児たちの頭目も、その後の実力次第で幹部社員にまで
出世できたのですから、東映という会社も実に度量が大きかったということになりましょうか。