次の転機となったのは昭和62年(1987)でした。軸になったのは「赤い光弾ジリオン」という作品です。
この作品は日本のアニメーション史的観点から言うと「宇宙エース」以来の伝統的存在としてのタツノコプロの最後の作品とも言える作品であり、同時に制作スタジオとしての京都アニメーションとプロダクション・アイジーの出発点となった作品とも言えるのです。
タツノコプロは現在でも再建して存続していますが、昭和末のこのころは苦境に陥っており、有力スタッフが次々と離脱する状態だったようです。
実は「赤い光弾ジリオン」も機能を失いつつあったタツノコプロ本体の制作ではありませんでした。
「ジリオン」制作の中心となった石川光久君はタツノコのスタッフではありましたが「竜の子制作分室」という半独立の組織を立ち上げ、
制作費まで半ば自弁するような形で完成したのが「ジリオン」だったそうです。そしてこのとき、実際の制作実務を請け負ったのが有限会社化して制作作業進出を図っていた京都アニメでした。
「ジリオン」完成後、石川君はキャラクターデザインを担当した後藤隆幸君と竜の子制作分室を有限会社に発展させました。
これが現在のプロダクション・アイジーというわけです。
この時分、私は後藤君ともいろいろ縁があり、応援していたのですが、実はこのブログ既出の人物で、もっと直接的に両社の立ち上げに協力していた人物がいます。
それは私の姉です。この「姉」とは、「東映動画に入るまで」で記した、東映の募集広告を見つけてきて私に示し、
私にアニメーションへの道を開いたあの姉です。なにしろ私の姉ですので陽子にとってもやっぱり姉です(笑)
姉は実は経理畑の人で、大手製薬会社で経理を担当した経験もありましたので、立ち上げ時期には京都アニメもアイジーも姉が経理面の面倒を見ていたのです。
一方、八田英明君は当初、電鉄会社に勤めていましたが、後には京都アニメに専念することとなりました。八田君もまた経理畑の人であります。
また、制作スタジオとしての京都アニメーションへの評価は上々で、自ら良い評判を積み重ねていく流れともなりました。
そんなわけで、私や姉の東京組は徐々に京都アニメーションからは離れ、同社は八田夫妻の手綱で繁栄への道を歩んでいくことになったわけです。
したがって私、杉山卓は、京都アニメーションの創業に深い関わりを持っているとはいうものの、
私自身が京都アニメの作品に直接参加したり、技術指導に出向いたりといったことはありませんでしたので、
これまで特に私自身の経歴に含めて考えてはこなかったことで、結果的に一般からは両者の関係がよく判らないような感じにもなったのでしょう。
今日の京都アニメーションが特にファンの皆様から得ている高い評価と深い愛情は、ひとえに京都の地で同社に集った方々が成したものによって勝ち得たものですから、
必ずやまた、それらの人々によって輝きを取り戻していくものと私は信じてやみません。