京都アニメーションの悲しい事件から早や1ヶ月が過ぎようとしている。
事件に対する関心は今なお高く、私の元にも今に至るまで新聞などの取材が絶えない。
もとより皆が得心する「真相」などというものは存在しない事件なのかもしれないが
そうしたものを求める心をいまだ皆が共有しているようでやりきれない思いだ。

ところで、こうしたやりとりを通じて感じた、ある戸惑いについて息子に照会すると、
どうやらその原因が分かってきた。
息子によれば今ネット上に存在する情報だけでは杉山卓と京都アニメーションの関係が
いまひとつ判然としないというのである。
なるほどそんなものかも知れぬと思いいたり、そのあたりについて記すこととしたい。


まず、京都アニメーション創業者の現専務、八田陽子(旧姓杉山)は私、杉山卓の実妹であります。

すべてのはじまりは昭和40年代前半(正確な日時は忘れました)、
私が陽子から「私もアニメーションの仕事をしてみたい」という相談を受けたことでした。
当時、私は虫プロダクションに在籍しておりましたので、陽子を虫プロに紹介し、
陽子は虫プロの彩色の仕事を始めたのです。

このときの経験は貴重なものとなったようですが、直接的には発展せず、やがて陽子は別の仕事の都合で京都へ移住することとなります。
京都の地で陽子は八田英明君(現社長)と出会い、結婚。現在も京都アニメーションの本社のある宇治市に居を定めます。

こうして落ち着きどころを得た陽子は再びアニメーションの彩色の仕事をしたいと私に相談してきましたので、
私は今度は陽子を楠部大吉郎君に紹介したのです。昭和56年(1981)の話です。
楠部大吉郎は「駆け出しアニメーターの記」でも触れた東映動画の同期であり、この当時は既にシンエイ動画の社長であり、
ちょうど「ドラえもん」が国民的ヒット作としての地位を確立しつつある興隆期でありました。
シンエイ動画の仕事を得た陽子は近所の主婦を集めて彩色工房を立ち上げました。これが現在の株式会社京都アニメーションの直接の始まりとなります。当時はまだ個人経営で、「京都アニメスタジオ」と名乗っていたと記憶しています。