特に「桃太郎 海の神兵」は長尺(74分、「桃太郎の海鷲」は37分)であることもあって、冒頭の帰郷シーンなどの美しい叙情的場面に多くの時間と労力を費やしていてどうにも好戦的な意気が上がりません(笑)
戦闘シーンでもリアルなメカの描写など迫力があるのですが、一方では悲壮な戦死場面を情感たっぷりに描き出したりしていて、
さすがに海軍もたまらずクレームを付けて若干削られたとも聞きますが、それでもまだ悲しみに満ちたシーンが残っていたりします。
「桃太郎 海の神兵」で特に力が入っているのはミュージカル・シーンです。「ファンタジア」の日本公開は戦後のこととなりますが、
桃太郎両作の監督である瀬尾光世監督は、占領地で日本軍が接収したフィルムの中に「ファンタジア」があったのを特別に見る機会があり、
大いに触発されるところがあったとのことで、「海の神兵」はその影響を大きく受けているのが見て取れます。
ミュージカル・シーンは当時の日本の「八紘一宇」という美しいスローガンに則って、
東南アジアに於いて欧米支配から解放された現地の住人たちに相当する動物たちが嬉々として日本側の飛行場建設に従事したり、
彼らに日本語を教育するシーンとして設定されています。
まあ軍事行動のタテマエとして掲げていた美しいスローガンの映像化ですから軍側としても否定するわけにもいきません。
「海の神兵」ではキャラクター毎に担当アニメーターが全カットを担当するという「専属制」が取られていたそうで、
一部では「今日では考えられない贅沢なシステム」などとも評されているようですが、奇しくも私が監督をした作品
「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」でも同じようなシステムが採用されています。
これは総監督である手塚治虫さんの発案でした。手塚さんはやはり公開当時「海の神兵」を劇場で見て「日本でもこのようなものができるのか」と
大きな驚きを持ったとのことですから、この提案が「海の神兵」を背景としている可能性も低くはないでしょう。
「桃太郎 海の神兵」の製作時期はまさに日増しに戦況が厳しくなっていく時期そのものにあたり、人材、資材ともにどんどん戦争に取られていって、
その苦労が筆舌に尽くしがたいものであったことは間違いありません。
昭和19年末にどうにか完成し、翌年4月に公開となるわけですが、昭和20年4月というのは帝国海軍的にはまさに戦艦大和が特攻作戦の末轟沈されたりしている時期なわけで、
とうに子供向けのプロパガンダなどという迂遠なことをやっていられる状態ではなかったはずです。
完成作を提出された海軍省の軍人も随分と困惑したものと想像されるわけです。
「桃太郎」を作った人たちや組織は戦後の日動や東映動画とは直接の繋がりはありません。
しかし、困難な状況下でも状況を最大限に利用して自分たちの本当に作りたいものに近づいて行こうとする姿勢には現在にまで至る日本のアニメーションを作ってきたひとびとの姿勢として何かしら通ずるものが受け継がれているような気がするのです。