これは後に分かったことですが、東映の動画スタジオ要員としての第一回目の一般募集に応募した人数は約800名だったそうです。そのうち10名が合格しましたが、実際に入社したのは9名。1名は事情があって辞退したとのことです。

一方、この一般募集とは別に、東映本社が大学卒業の定期採用要員を幹部候補として動画スタジオに配属しています。
彼らと我々一般募集要員との時間的差はわずかでしたが、先輩ということで指導者として配属され、
初歩的な技術指導に当たってくれることになりました。
こうして我々9名の新人アニメーターの実習が始まったのです。

9名のその後はさまざまです。
「白蛇伝」完成以前に辞めてしまった者もいれば、昭和後期のアニメーションの世界で重要な存在となった者、
他の世界に移って名を成すに至る者も出ました。

アニメ界で活躍したのは、まず、東映動画社内で製作本部長にまで出世した江藤昌治。
実力派アニメーターとして動画担当からまたたく間に原画担当のキーアニメーターとなり、
東映退社後には「巨人の星」で「ちゃぶ台返し」を見事にアニメ化した楠部大吉郎。彼は
「ドラえもん」のシンエイ動画の創立者しても知られます。
小田克也は長く東映動画に留まり、後のロボットものなどでも中核的アニメーターを務めました。

イラストレーターとして名を成したのは永沢詢(永沢まこと)。

しかしアニメーター候補として養成班に配属された新入社員のうち、最初に独自の本領を見せたのはなんといっても小山礼司でした。