ここに1本のフィルムがあります。

リール1巻きで、上映すると10分余りある16ミリフィルムなのですが、

実は1本の作品ではありません。
16ミリといえど小巻きのリールだとあっちへごろごろこっちへごろごろ、

終いにはどっかへ行ってしまいますからこれはそのころ直接私が受けて

作ったアニメーションのフィルムを全部1本に繋いでしまったものなのです。

だいたい、フリーになった昭和42年(1967)くらいから46年(1971)

くらいまでの主にCMのフィルムです。
なので、カラーだったりモノクロだったり、正確なデータも記録して

なかったので、はたして作った順かも怪しいのですが、数年前にデジタル

キャプチャをして下さった方がいましたのでここで画面を見ながら

辿ることができます。


CMのアニメーション

さて、そもそもCMとは commercial(商用)の略で、民間放送に於いては

スポンサーによる宣伝枠のことです。
昔はCFという言い方もしましたが、これは commercial film の略で、最近は

あまり聞かないようでもありますから、テレビに於いてはビデオ登場以前の

生放送が主体であったころからコマーシャルはフィルム撮りが主で

あったことを反映した言い方だったのかも知れません。

CMアニメには劇場アニメやテレビアニメのような劇映画とは大きく

異なった点もあります。

まず第1にはそのクオリティ。
秒数は短いですが、実は秒あたり製作費では名だたる大作映画などでも

CMには全く敵わないのが一般的です。
CMは望まれない状況で画面に闖入し、その状況で視聴者に好感を抱いて

もらわねばならないのです。
しかもスポットCMなどでは長い時間テレビを見ていると全く同じ映像を

何度も何度も見ることになるわけです。そしてそれが一定期間とはいえ

毎日続くのです。
当然クオリティ的な隙は許されません。最上級の映像品質を求められるわけです。

第2が表現の問題です。
なにしろ宣伝ですから、基本的にネガティブな表現や乱暴な表現はダメ。

あやふやな情感や雰囲気に逃げたり、回りくどい表現もダメ、時間も短いですし、

クライアントの意図する情報はスパっと明解に表現しなければいけません。

必ずです。制約がきついのです。
もっとも私の場合は、岩波映画でドキュメンタリー的な映画制作などにも係わって

いたこともあったので、実はそれほど大きく差異を感じないで済んだ部分は

あるかも知れません。当時のドキュメンタリー映画には企業宣伝的な要素の

強いものもあったのです。


アニメーションによるテレビCMは昭和30年代の民放テレビ放送開始直後から存在は

したようですが、それはほとんど「独立系」と言われる小規模スタジオを中心として

製作された作品でした。東映動画の一アニメーター時代にはそうしたスタジオの

方々が東映動画に設備や機材を借りにいらっしゃるのもよく見かけました。

東映動画はそれだけ他と隔絶した別格の設備や機材を揃えていたのです。
そういうわけでCMのアニメーションと言うのは東映や虫プロ出身のアニメーターとは

この頃まであまり係わりがなかったのですが、昭和40年代に入ると私のように会社の

枠をはみ出して活動するものがぽつぽつ出てきまして、CMにも係わっていくように

なっていったわけです。
東映の仲間で「殺生石」の原画をやっていただいた彦根範夫(ひこねのりお)さん

なども、ちょうどその頃からフリーになられたようで、やはり同じ頃にCMなども

手掛けるようになり、それがそのまま現在まで続いた例が明治のカールのCMなどで

あるようです。
(丈彦注:ひこねさんのカールCMは昭和49年(1974)以来、現在でもカールの販売が

続いている西日本ではカールおじさんも現役みたいですね)


フィルムのリードにはこんな画面の入っているものが複数あります。

「JAC 日本テレビコマーシャルフイルム製作者連盟」というのはいわゆる

業界団体だったと思いますが当時の私は一応こういった団体にも参加してCM製作も

やる気充分だった模様。(例によって正直、よく憶えていません、笑)
(丈彦注:「日本テレビコマーシャルフイルム製作者連盟」は現在の「一般社団法人

日本アド・コンテンツ制作協会」ですね。略称はJACで変わっていません。

CM製作者の互助団体です)

あと、ほんの一瞬ですが「電」そして「通」の2文字が画面いっぱいに現れるものも

あります。言わずと知れた有名広告代理店の扱いを表している表示ですね。
この会社、近年ではその社員の人あたりを筆頭にその仕事上の諸々も含め何かと

取沙汰されることの多い会社となっている様ですが、50年前に一緒に仕事をした時の

印象はどうだったかと言うと…
今よく言われているのと全く同じ印象でした(笑)

フィルムごとに大体こんなカウントダウンリードが付いています。(右から左へ

白い棒が増えて行きます)

さて、はじまりはじまり。


1<マツダキャロル360>

「マツダキャロル」は光栄にも自分が持っていたクルマのCMを作ることが

出来た例です。

キャロルというクルマは1代で終わったクルマと思っておりましたが、

息子によればその後また復活して今でも売っている由。

(丈彦注:というか杉山卓は「オートザムキャロル」でしたが平成に

なってからももう1度キャロルの中古車を仕事用のセカンドカーにして

乗り回していた時期もあるんですが、その頃にはもうすっかり

クルマへの興味が失せていたのでその時のクルマの名前は認識して

いない様子w)
もうこのCMを作った頃には他のクルマに乗り換えていたと思いますが、

キャロルは私が初めて買った新車でもあったのです。

実はその前に初めて買った中古車もマツダでした。スーパーカブの

代わりに初めて買った中古の軽自動車がマツダR360クーペという

クルマだったのです。マツダが初めて作った4輪の乗用車で、

小さな小さなクーペでした。そのクルマで酒井一美を乗せて

酒井の実家のある静岡市まで、当時東名はありませんから、
箱根の山をあえぎあえぎ越えて決死の往復をしたりしていたのですが、

ある日、いつも駐車しているところ(路上ですが当時は合法でした)に

行ってみたら、なんとあろうことか両のドアが盗まれていたのです(笑)! 

ドアだけ! 実質二人乗りみたいなクルマでしたから、
向こう側がまる見えでした(笑)。しかし、ちょうど子供も生まれて来る

という時期でもありましたので、一念発起して、同じマツダの新車を

買ったのです。それがキャロルでした。

「♪ひとつとせ」
全体が数え歌になっています。

キャラクターは私のオリジナルだったと思います。

キャロルがあれば彼女も出来ます。
軽自動車でもクルマを持っていればモテる時代でした。

これがマツダキャロル360。クルマのシーンは実写です。キャラが乗るときは合成。
息子の「鑑定」によれば、このキャロルは昭和41年(1966)~45年式の「後期型」

だそうで私が買ったキャロルとはちょっと顔つきが違うようです。あと、

私のは2ドアだったのですがこれは4ドアですね。
キャロルは今の軽自動車よりもふたまわりも小さいクルマだったのにちゃんと

凸形をしたセダンなのが特徴のクルマでした。おかげで後のウインドウなどは

平面ガラスが垂直に立っていたのを憶えています。


2<長野放送 コンバーター>

お次は長野放送。「コンバーター」取付推奨CMです。モノクロ作品。

このトリが案内役です。
(丈彦記:このトリ、どうも聞きなれた声というか、間違いなく三輪勝恵さんの

声です)

テレビに「コンバーター」なるものの取り付けをお勧めしてくれます。

こんなテレビが見れるようになるようです。

ここは私の作ったアニメーションではありません。「ゲゲゲの鬼太郎」ですね。
(丈彦記:この鬼太郎(東映動画)は一番最初の昭和43年のモノクロ版のようです)

テレビを見ているのは私の描いたキャラクターですが画面の中は実写という

不思議な世界。

ボクシングです。

こちらはグループサウンズ? この方面は詳しくないのでどなたかは判りません。
(丈彦記:「君だけに愛を」(昭和43年=1968)を歌っているので

ザ・タイガースですね。沢田研二さんっぽい方も見えます)

そして時代劇。数カットありますが1本の作品からではないようにも見えます。

「コンバーター」というのは当然テレビの電波をコンバートするものなのでしょう。
長野は山国ですから難視聴区域も多いはず。しかし、コンバーターがないとテレビ
あるいは長野放送が見れないのなら長野放送で設置を呼び掛けてもムダでしょうし、
さりとてテレビがキレイに見れるようになるだけなら、番組内容は同じなわけで、
いろんな番組が見れるようになります的な本CMの内容と合いません。謎です(笑)

最後はトリが山上の山男みたいに「ながのほーーそーー!」と叫んで終わりです。
(丈彦記:シャウト一発をステーション・コール代わりにしてしまうこのころの
声優さんは凄いですね)


3<きねや 瀬戸の内>

さて、次は「きねや」という会社の「瀬戸の内」というお菓子です。
おみやけに持っていく、箱を開けるとずらりと並んでいるようなお菓子のようです。

全編が男声コーラスグループの歌になっています。ダークダックス?

デュークエイセス?あるいはボニージャックスでしょうか?
(丈彦記:どれかは判りませんが間違いなくその3つのうちの

どれかでしょうw)

「瀬戸の内」という名前の通り海のシーンから始まります。

ところが舞台は唐突に宇宙へ。

宇宙でも「瀬戸の内」は美味しく食べられます

といったところでしょうか。そう、このCMを作った頃、それはまさに

宇宙時代だったのです。1969年(昭和44年)、人類は月に到達しました。

宇宙進出の時代がやって来た! それから50年後、人類が他の惑星に
到達するどころか、月ですら以後、誰も行っていない未来というのは、

私などにはもちろん手塚さんでもちょっと思いつかない未来だったと

言えましょうか(笑)

このお菓子、東京ではあまり馴染みがない上、お菓子そのものには

由来しない名前なので具体的にどのようなお菓子なのかは判りません。

当時貰って食べている可能性はありますが例によって何も

憶えていません。
息子にも調べて貰いましたがよく分からないそうです。
(丈彦記:「瀬戸の内」「きねや」「杵屋」などで検索してみましたが、

どうもそれらしいものに行き当たりません。少なくとも現在では大々的に

売られてはいないようです。名前からすると関西以西で展開していた

お菓子のようですが東京では聞いたことがありません。関西の方だと
「ああ、そういうのあったねえ」と思い出すような

お菓子なのでしょうか?)


4<ハリス カラッペフーセンガム> 3パターン

一般的なCMの最後はハリスの「カラッペフーセンガム」。

内容違いで3パターンあります。

カラッペというのは赤塚不二夫さんの漫画「風のカラッペ」の主人公。

カラスの渡世人です。

ハリスは子供向けの風船ガムの有名メーカーでしたが現在は

なくなってしまった様子。
(丈彦記:かつてのハリスはガネボウフーズを経てクラシエフーズに

なっているそうですが、つい近年、令和になってガムの製造は

やめてしまったそうです)
「カラッペ」は漫画の段階でハリスとタイアップが

成立していたようです。


ハリスはしばしば連載漫画とタイアップしていたようで、

有名なのでは、ちばてつやさんの「ハリスの旋風(かぜ)」があります。

こちらのアニメ版も私はやっています。
もっとも私が参加したのは虫プロが制作したカラーリメイク版の方で、

その時にはもうハリスとのタイアップは切れていたのか「国松さまの

お通りだい」というタイトルでした。

今思えば石田国松少年ははみ出し者の「不良少年」を表す記号として

潰れた学帽を被っていましたが、「W3(ワンダースリー)」の星真一少年も

企画途中までは手塚漫画定番の優等生主人公だったのにいつのまにか同じように

潰れた学帽を被った「不良少年」になっていました。「W3(ワンダースリー)」は

手塚さんにとっていろいろ新しいモノに挑戦する意味の強い作品でしたが、

その過程で研究したり参考にしたりしたのは007やさいとう・たかをさんだけでは
なかったのかもしれません。


さて、話をカラッペに戻しますと、ハリスとしてはカラッペも石田国松少年の

ようにアニメにしたかったのかもしれませんが、このCMは私が個人で受けましたので、

少なくともこのCMの時点ではどこか他のプロダクションでテレビアニメ化の話が

進んでいるということはなかったのだと思います。

このガムの「売り」の大きなものは「ハレハレシール」というオマケのシールが

付いてくることでその告知こそがこのCMの大きな主題なわけですが、なるほど、

子供向けのお菓子にこうしたシールやカードが付くことは珍しくなく、これは

そうしたものの例としては早い時期のものであったと思いますが、

のちには似たようなオマケが商品や作品の大ヒットの要因となった例は数多くあり、

子供向け商品の展開としては画期的で意義のあるものであったのかもしれません。

しかしこのCMの説明するところによれば、このガムに同梱されているのは

「ハレハレシール」ではなくその「点数券」とのことで、点数を集めて郵便で

ハリスに送るとこれまた郵便で「ハレハレシール」がやっと送られてくるという、

当時としてもいささか悠長なシステムだったようです。おそらくガムの
パッケージが小さ過ぎてシールが同梱できないのでこのようなことになった

のでしょうが、やはり子供相手にはちょっと煩雑過ぎたのかも知れないとは

思います。

結局、そんな要因からか、ハリスのバックアップも中途半端に終わり、

カラッペはテレビアニメになることもなく、数多ある赤塚漫画の中でも

あまり存在感のある作品とはならないままになってしまった、ということ

なのでしょうか。



さて、このフィルムにはやはり短編ですが、通常のCMとはやや性質の異なる作品も

入っています。
次回からはそういった作品をご紹介しましょう。