酒井一美のお父さんは静岡県庁にお勤めでしたので酒井一美は静岡市の中心部で
生まれました。
しかし、戦争が始まるとお父さんは家族を静岡県内で疎開させることにしました。
ご自身は遠州、秋葉山の近くのご出身でしたが、その周辺で家を探し、最終的に
磐田郡は光明村(現在の浜松市天竜区)の山東(やまひがし)という村に家を
見つけ、そこに家人を疎開させ、自身は静岡市内に留まって県庁に通うことと
しました。ですので酒井一美は静岡市内の幼稚園から光明村の小学校(この
当時は国民学校と言いました)に上がり、卒業までの6年間をこの村で過ごしました。
ところで、この光明村というか山東にはこの村出身のちょっとした有名人というか
風雲児がいました。
その男は、村の鍛冶屋の息子で、手先が器用。東京へ出て自動車修理工場で修行して浜松に支店を出すと弟と一緒に自動車レースに出て、ひっくり返って大怪我を
したり、独学でエンジン部品を作る工場を作ると、またたく間に飛行機の部品を
手掛ける大工場に育てたり。しかし戦争が終わるとその工場にもさっさと見切りを
つけて思い切り良く売ってしまったり…。
もうみなさんお分かりでしょう。その風雲児の名は本田宗一郎と言いました。
まだ世界企業「ホンダ」を創業する前のことですが、地元の有名人として身近な
存在であったようです。
やがて終戦後しばらくして、本田さんは陸軍放出品の無線機用小型エンジンを
自転車に取り付けることを思い付きます。これが「ホンダのバタバタ」と言われた
ホンダの始まりの一品な訳ですが、酒井一美は本田さんの奥様がバタバタに乗って
颯爽と走る姿を目撃したことがあるそうです。
<丈彦記>
本田宗一郎氏が最初の原動機付自転車(バタバタ)を完成したあと、買い出し等の
負担軽減とデモンストレーションを兼ねて、さち夫人に宛がってあちこち
走り回らせたというのは、ホンダの創業譚として有名なお話なのですが、今回、
打ち合わせをしていてなんと酒井一美がその直接の目撃者であったと知って
驚きましたw しかし、本田宗一郎氏はホンダ創業時点でも、浜松周辺では、
道路を走る不思議な乗り物に乗った女性が小学生にも「あれは本田宗一郎の
奥さんだ」と認識されるほどに有名人だったようですね。
まあ、そんな訳で酒井一美は本田さんと地元の縁があった訳ですが、私の方は
というと、ホンダとの最初の縁は以前にも書いた東映と武蔵美に通うために買った
スーパーカブということになります。
しかし、酒井一美と結婚することになる頃になると、いつまでも50ccのカブに
二人乗りしている訳にもいきません。それで買ったのが前回書いた
マツダ・クーペです。ここで一旦ホンダとの縁は切れた形になりました。
しかし、その後7~8年ほど経って、ホンダさんから直接、変わった、しかし贅沢で
やりがいのある仕事のお話しを頂くことになったのでした。
さて、虫プロダクションという会社は周知のとおり手塚さんのアシスタント群を
拡充する形で発足しましたので、その主体はアシスタントやアニメーターといった
絵描きであったわけですが、
アトムの他にもテレビアニメを製作するようになる頃にはそれなりの規模を伴った
会社組織にもなっていた訳です。要するに絵描きでない事務方の人もいっぱいいた
ということです。なにしろ当時はまだ「版権ビジネス」というコトバも前例もない
時代で(この頃はもっぱら「マーチャン」と呼んでいました。merchant=
商人・業者のことでしょうか)ビジネスとしても最先端の手探りだったのです。
ですから、手塚さんとの関係からいらっしゃった編集系の方が多かったようですが、実は事務方の人々も絵描き同様一筋縄ではないヒトが多くいたのです。
その中に、早々に虫プロからとある大会社の広報部門に転じられた方がいました。
大会社とは自動車会社、そう本田技研工業(ホンダ)です。そして、移籍早々に、
特別な舞台で虫プロ出身らしいユニークな企画を立ち上げられたのです。
その舞台とはモーターショーでした。
東京モーターショー。
昭和40年代のこの時期はまさに日本車が国際商品として世界に出て行くように
なった時期でしたので、このころ東京モーターショーも毎年開催されており、
例年メーカー側も力の入った新型車やドリームカーを展示し、観客も大挙して
押し寄せて活況を呈していました。
そんなモーターショーのホンダブースの一画でフィルムを上映するというのです。
「ホンダ劇場」です。
こういった見本市的なものでは現物展示の他に大小の映像でもアピールするのは
現在ではごく一般的なことですが、当時はモニタースクリーンはもちろん、映像を
流すためのビデオ装置もいまだ一般的なモノではありませんでした。
従って「劇場」とは文字通りブースの一画に仮設の骨組みを建て、暗幕を張って
暗く出来るスペースを作り、その中にスクリーンを置いて映写機でフィルムを
上映するという手の込んだものでした。
もしかしたらテストコースを疾走したりするホンダ車のイメージ・フィルムや
説明映像なども流したものかもしれませんが、
このシアターで専用・新作のアニメーションを流そうというのが企画の趣旨でした。そして、大胆にもそれを虫プロや東映動画といったアニメーション「会社」に
発注するのではなく、虫プロ時代の人脈を活かしてアニメーター個人に
依頼したのです。
作品の要件は、数分の短編であること、モーターショーにふさわしい、何らかの形で「クルマ」を題材とした作品であることの二つだけ。
競作で、アニメ作家としての貴方のセンスを存分に発揮して下さいというおハナシです。
アニメーターの立場からすると随分と光栄であるとともにいろいろ試されるおハナシでもあった訳です。
このおハナシを頂いたアニメーターは3人。
久里洋二さんと月岡貞夫さんと私でした。

モーターショーアニメのタイトル画面
このN360はわたしの絵ではありません。
「Mini Film C」とありますね。
AとBは、どちらがどちらかは分かりませんが
久里さんと月岡さんと思われます。