「随筆 われらの勝利の大道」〈めつの原水禁宣言55周年〉から2024年9月6日

  • 平和を願うみんしゅうゆうかんさけびは強い
  • さあふう堂々と対話と友好の秋を!

 9月8日は、第2代会長・戸田じょうせい先生が「げんすいばく禁止せんげん」を発表した日である。生命そんげんの立場から、かくへいを“絶対悪”と位置づけ、こうけいの青年にかくはいぜつたくしたこの宣言は、学会の平和運動の原点となっている。「9・8」の歴史を通し、池田大作先生が真情をつづった「随筆 われらの勝利の大道」〈めつの原水禁宣言55周年〉(聖教新聞2012年9月8日付、同12日付)とともに、「9・8」に関する広布史をけいさいする。

核廃絶へ国家の枠を超えた世界市民の育成を!――「アメリカの良心」といわれたノーマン・カズンズ氏と池田先生が心通う語らい(1987年2月、アメリカ・ロサンゼルスで)

核廃絶へ国家の枠を超えた世界市民の育成を!――「アメリカの良心」といわれたノーマン・カズンズ氏と池田先生が心通う語らい(1987年2月、アメリカ・ロサンゼルスで)

  ひびきゆけ
    おおみんしゅう
        きんの声
  
 私たちはさけぶ。
 だんじて平和を!
 不戦のちかいを万代へ!
 いかなるけんりょくびとどうかつよりも、平和を願うくさしょみんゆうかんな叫びは強い。
 私が対談(『世界市民の対話』。『池田大作全集』第14巻収録)した信念のげんろんじんであり、広島のばくしたおとたちへのえんでも知られる、アメリカのカズンズ博士が語っておられた。
 「庶民をはげまして、自分の感じること、言いたいことが世界の前進を助け得ると信じさせなければならない」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)と。
  
 私たちはわすれない。
 人類史上、初めて戦争でざんこくな原子ばくだんが投下された広島。次いで二発目が落とされた長崎――。
 二つの街はかいされ、いくとうとい命がうばわれた。せいぞんしゃにも原爆症などのがたい苦しみが長く続いている。
  

 それは、一九五七年(昭和三十二年)の九月八日の日曜日。「若人わこうどの祭典」(第四回東日本体育大会)が行われた横浜・ざわの陸上競技場は、台風一過のとおるような秋空に包まれていた。
 この祭典のとうかざったのが、戸田先生のであった。青年を中心にした約五万人を前に「宣言」がはなたれ、こだました。
 「われわれ世界の民衆は、せいぞんけんをもっております。その権利をおびやかすものは、これものであり、サタンであり、かいぶつであります」(『戸田城聖全集』4)
 当時、水爆やたいりくかんだんどうだん(ICBM)の実験が行われ、米ソの核兵器開発競争がげきしていた。核戦争などによって、人類がめつぼういたるまでの残り時間をしょうちょうてきに示す「世界しゅうまつ時計」も、二分前という滅亡すんぜんまで進んでいたのだ。そうしたちゅうに、わが師は、人類の生存さえだんぜつしかねない原水爆の本質を、国家や政治体制、人種や民族といった次元をえ、「人間生命」というしんそうからこくはつしたのである。ある参加者は広島で被爆した友人を思い出し、平和な世界を築くために、師と共に、心固く歩んでいこうと決意を新たにした。
 学会が“びんぼうにんと病人の集まり”とあっこうされた時代である。だが、こんなんきょうぐうなど一切け、恩師の叫びは、みなを「広宣流布」そく「世界平和」への使命にめさせる、だいこうげんとなった。

「原水爆禁止宣言」を発表する戸田先生。5万人の青年らに核兵器の廃絶を“遺訓の第一”として託した(1957年9月、横浜・三ツ沢の競技場で)

「原水爆禁止宣言」を発表する戸田先生。5万人の青年らに核兵器の廃絶を“遺訓の第一”として託した(1957年9月、横浜・三ツ沢の競技場で)

 長崎で被爆したある壮年は半世紀近くの間、思い出すことも口にすることさえもえられず、自らの体験を心にしまいんできた。そのてついた心を解かしたものは、当時、長崎文化会館で目にした「原水爆禁止宣言」の全文であった。
 「(=この宣言の思想を)全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命である」――「使命」の二文字がまなこに焼き付いた。「自分にできることから始めよう」。いってつな壮年は決めた。それは、勇気を出して「語る」ことであった。
 多くの命をうばった原爆のあとに、勇気と希望の対話の花をかせよう。それが、生かされた者の使命だ――この思いで、しんけんに語りに語った。
 「こうきゅうの平和はきょうはくによってではなく、そうしんらいまねしんな努力によってのみ、もたらされるものです」(O・ネーサン、H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡』2、金子敏男訳、みすず書房)とは、大科学者アインシュタインの言葉である。
 平和へのじきどうである対話を実らせるには、しんらいを築いていくことだ。友情をむすび、はぐくんでいくことだ。
 そのためには――
 相手の話を「聞く」。
 相手を「うやまう」。
 相手から「学ぶ」。
 これが、価値ある対話の鉄則である。
 せいくんには、「教主しゃくそんしゅっほんかいは人のふるまいにてそうらいけるぞ」(全1174・新1597)とおおせである。私たちのせいじつしんけんな行動によってこそ、平和のちょうの水かさも増していくのだ。
 「私の弟子であるならば、私のきょうの声明をいで、全世界にこの意味をしんとうさせてもらいたい」(『戸田城聖全集』4)
 恩師が「原水爆禁止宣言」で指し示されたのも、ねばづよしんらいを勝ち取り、社会に平和のてつがくを浸透させていくことであった。
 その思いで、私も世界をめぐり、各国の指導者たちと友情を結び、共生の世界を築くために対話を重ねてきた。
  

 「平和運動といっても、むずかしく考えることはありません。それは、周りの人たちへのやさしさの表現です」
 私と妻のわすぬ友である広島の婦人は、こう言われた。ばくしんから南九百メートルで被爆された方である。近くの川下には明治橋(爆心から南へ約一・三キロ)が、かろうじて残っていた。
 「ヒロシマを語る会」の一員として、修学旅行生などに体験を伝えられていた。関西創価学園の生徒たちもお世話になった。彼女は原爆症の苦しみに加え、在日かんこくじんというだけで、いわれなき差別を受けた。しかし負けなかった。小学校時代の体験が支えになったからである。
 それは、いじめにった時、かばってくれた一人の友人がいたことであった。かたに置かれた、その手の温もりを忘れず、「たった一つの、その出来事のおかげで私の中の悲しみのおくがどれほど消されたことか」とかえられていた。
 だれもが、平和を望んでいる。どんな人にも、他者をいつくしみ、大切にする心がそなわっている。ほんの少しの勇気が、友を守る力となる。何気ない言葉でも、人生を変える時がある。大事なことは、誰の心にもある良心と勇気を一人、また一人とまし、地域を、社会を、そして人類全体を包み込んでいくことではないだろうか。
  

 核戦争は人道への犯罪であり、人類をぜつめつさせ、地球にめつをもたらす。
 心ある人はみな、原水爆の使用や核実験を禁止し、核を廃絶すべきことは当然だと考えている。その一方、「いくら正義を叫んだところで、現実など変えられるはずがない」とあきらめ、無関心や無気力におちいってしまう場合も少なくない。しかし、「ラッセル=アインシュタイン宣言」の起草者であるイギリスの哲学者ラッセルはうったえていた。
 「私たちは、さんにむかう競争にしつするように運命づけられてはいません。そういう惨事をひきおこしたのも人間の意志ですし、それをすることができるのも人間の意志です」(『常識と核戦争』飯島宗享訳、理想社)
  

 文永八年(一二七一年)の九月十二日は、日蓮大聖人がほっしゃくけんぽんされたたつくちほうなんの日である。
 それから二年後の九月、大聖人はざいの地より、だいなんひるまずしんこうつらぬく鎌倉の女性門下らに送られた。
 「第六天のおうが、十のだいぐんぜいをもっていくさを起こし、きょうぎょうじゃのううずく海の中にあって、聖人とぼんが共にいるしゃかいを、取られまい、奪おうとして争っているのである。日蓮は、その第六天の魔王と対決し、大兵を起こして二十数年になる。その間、日蓮は『一度もしりぞく心なし』である」(全1224・新1635、通解)
 この蓮祖の御心に直結するゆえに、われら創価の師弟も、平和と正義のだいとうそうにおいて、「一度もしりぞく心なし」と戦いくのだ。
  

 さあ、我らはふうも堂々と前進しよう! 「対話の秋」「友好の秋」を!
 生命そんげん、人間共和のうるわしき平和の世紀へ!
 人間主義のかがやきわたる希望の新時代を目指して――。
  
  おそれなく
   この人生を
     共々に
   断じて勝ちゆけ
      平和のはた
  

【広布史】

 池田先生はかつて、世界平和への行動をつらぬく上での支えとなっている恩師・戸田先生の言葉をしょうかいしたことがある。
 「人類の平和のためには、“具体的”な提案をし、その実現に向けて自ら先頭に立って“行動”することが大切である」――この指針を胸に、池田先生は、「9・8」をじくに、かく戦争のかいに向けて、人々の心を分断から調和へ、不信からしんらいへと変える戦いを起こしていった。
 1968年(昭和43年)9月8日には、「日中国交正常化提言」を発表。国際社会の動向をえつつ、「核時代の今日、人類をめつから救うかいなかは、国境をえた友情を確立できるか否かにかかっているといっても過言ではない」と強調した。
 74年(同49年)5月のはつほうちゅうから時を置かずして、ソ連を初ほうもんしたのも9月8日であった。共産主義国に続けて足を運ぶことに、ねんの声や心ないなんの声もあったが、先生は生命そんげんと平和のてつがくたずさえて、対話のちからで世界平和の大道を開くために行動した。
 また恩師の「原水爆禁止宣言」の精神をせんようすべく、83年(同58年)から40回にわたる1・26「SGIの日」記念提言をはじめ、各種提言を発表。“人類の議会”である国連の活動をいっかんして支え、核兵器廃絶、文明のしょうとつや気候の回避のために希望の哲学を発信し続けた。
 さらに戸田記念国際平和研究所、東洋哲学研究所、アメリカの池田国際対話センター、ブラジルの「創価研究所――アマゾンかんきょう研究センター」などを設立し、学術研究の点からも平和そうぞうちょうりゅうあとししてきた。
 「平和ほど、とうときものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」との一節で始まる小説『新・人間革命』。広島にげんばくが投下された8月6日に稿こうした小説の新聞れんさいが完結したのは、「原水爆禁止宣言」から61年後の2018年(平成30年)9月8日であった。
 恩師の「宣言」を断固として実現してみせると、しょうがいをかけて行動し続けた池田先生。小説は、山本伸一がこう青年にびかけるシーンでめくくられている。
 「どうか、青年部のしょくんは、しゅんげんなる『創価の三代の師弟のたましい』を、断じていでいってもらいたい」――と。
 創価の師弟がつないだ“平和のバトン”は今、こうけいの青年たちにたくされている。