とうこんTALKトーク〉 解説編 テーマ:本門のほんぞん2024年8月28日

はたじるし”として学会が広布を実現

 末法のしゅじょうが「南無妙法蓮華経」を自身のきょうちゅうに確立し、自他共の幸福を築くために、日蓮大聖人がそうしょうし、てんかいされたのがさんだいほう――「本門のほんぞん」「本門のかいだん」「本門の題目」である。「日蓮がたましいをすみにそめながしてかきてそうろうぞ」(新1633・全1124)、「ほっつうのはたじるし」(新2086・全1243)という大聖人のせいしんのまま、創価三代の師弟は、御本尊を通して、世界広宣流布の大道を切り開いてきた。ここでは「本門の本尊」の意義をかくにんする。

人間をだいにする法

 たつくちほうなんざい――日蓮大聖人は最大のなんを勝ちえられる中で、きょうがいの大てんかんたされた。すなわち、末法のしゅじょうきゅうさいのために、おんじつじょうしゃくそんからめつにおける法華経つうたくされたじょうぎょうさつとしての使命とやくわりを果たす立場に立たれたのである。

 流罪地の佐渡であらわされたかんじんのほんぞんしょうで、「このほんもんかんじん・南無妙法蓮華経の五字においては(中略)ただせんがいして、はっぽんいてこれをぞくしたもう」(新136・全247)、「かれだつ、これはしゅなり。彼はいっぽんはん、これはただ題目の五字なり」(新139・全249)とおおせの通り、地涌の菩薩に託された法とは、だっちゃくの法華経ではなく、法華経の肝心であり末法のしゅじょうを成仏させゆく下種の法「南無妙法蓮華経」である。

 そして「せんがい出現して、本門のしゃくそんきょうとなすいちえんだい第一のほんぞんこの国に立つべし」(新146・全254)と仰せになり、大聖人は、しんかくした南無妙法蓮華経を中心とする文字まんの御本尊をあらわし、しんこうじっせんの本尊として多くの門下にじゅされるようになった。さつのリーダーたる上行菩薩の使命をにない、久遠実成の釈尊をも脇士とする世界第一の御本尊を打ち立てられたとはいされる。

 池田先生は、大聖人のしんほうとうそうが、「法」と一体化した人間のだいさを証明されたとし、次のように語った。「竜の口のくびで、人間とはかくも偉大なそんざいであると明かされた日蓮大聖人だからこそ、人間を最高に人間たらしめるこんげんの法を万人のためにけんしていかれたのです」(『池田大作全集』第32巻所収、「御書の世界」)

 末法の万人成仏のためのだいほうを示してくださったがゆえに、末法の教主である大聖人を「末法のほんぶつ」と仰ぐのである。

きょうがいを根底からへんかく

 末法のための御本尊とはどのようなものか。観心本尊抄では、次のように述べられている。

 「その本尊の為体ていたらくは、ほんしゃの上にほうとうくうし、とうちゅうの妙法蓮華経の左右にしゃぶつほうぶつ、釈尊のきょうたるじょうぎょう等のさつもんじゅろく等は四菩薩のけんぞくとしてまつに居し、しゃっほうの大小のもろもろの菩薩は万民の大地にしょしてうんかくげっけいを見るがごとく、じっぽうしょぶつは大地の上にしょしたもう」(新136・全247)

 大聖人が御図顕になった御本尊は、きょだいな宝塔の中に釈尊が多宝仏とならんですわり、地涌の菩薩への付嘱を行う、法華経のくうしきもちいてあらわされている。

 そして、地涌の菩薩にたくされた南無妙法蓮華経を中心に大書し、釈尊や多宝仏、上行菩薩等の四菩薩をはじめとする仏・菩薩などが周囲に配されている。この文字曼荼羅の御本尊は、大聖人の内面に確立された仏の覚りの境地を顕されたものである。

 御本尊は、末法の一切衆生が修行するためのもの。その修行の目的は、だれもが、自身の生命に仏界が内在することを確信し、その仏界の働きを顕し、成仏することである。

 この実践において、大聖人は「しんだい(信によってに代える)」を強調されている。

 仏界が自身のきょうちゅうそなわっていることをろん的に理解できなくとも、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることで、仏界の働きが顕れるのである。

 池田先生は、次のように語っている。

 「根源の妙法を信じれば、しんに妙法が現れ、自身のきょうがいが根底からへんかくするのです。迷いのえんしょうめつし、妙法が自身の生命をうるおし、さらにかんきょうへとおういつしていくのです。世界が根本から変わるのです。これが御本尊の功徳の根本です」(『池田大作全集』第32巻所収、「御書の世界」)

御本尊授与式も行われたトーゴ広布40周年の集い(本年5月、トーゴ平和会館で)

御本尊授与式も行われたトーゴ広布40周年の集い(本年5月、トーゴ平和会館で)

すぐれたるを用いるべし」

 大聖人が佐渡流罪をしゃめんされ、のぶに入られた後にしたためられたほうおんしょうには、さんだいほうの「ぎょうみょう」(具体的な形)として、「本門の本尊」について「日本ないいちえんだい一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。いわゆる宝塔の内のしゃほう、外のしょぶつならびに上行等のさつきょうとなるべし」(新261・全328)と述べられている。「いわゆる」以下に明らかなように、これは観心本尊抄に示された「本尊の為体ていたらく」と同じ姿すがたである。

 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」との意が単にしゃぶつぞうを指していないことは、後にあらわされた本尊もんどう抄に「法華経の題目をもって本尊とすべし」(新302・全365)とされていることからも明白である。南無妙法蓮華経の文字曼荼羅の御本尊は、久遠実成の釈尊をも仏にした南無妙法蓮華経という根本の法を万人が修行し覚知できるように示された「本門の本尊」なのである。

 さらに本尊問答抄で、次のように仰せである。

 「本尊とはすぐれたるを用いるべし。(中略)末代今の日蓮も、仏と天台とのごとく、法華経をもって本尊とするなり」(新303・全366)

 そして、法華経の題目を本尊とする理由として、「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日、総じて十方の諸仏は、法華経よりしゅっしょうたまえり。ゆえに今、のうしょうをもって本尊とするなり」(新304・全366)と述べられている。釈尊をはじめ、あらゆる仏は法華経によって仏となったので、「しょしょう(生み出されるもの)」である釈尊などの仏を本尊とするのではなく、「能生(生み出すもの)」である法華経の題目、すなわち南無妙法蓮華経を本尊とすることを、明確に示されているのである。

 また、南無妙法蓮華経の文字曼荼羅の御本尊が本門の本尊であることは、大聖人が多くの門下たちに文字曼荼羅の御本尊を顕し送られたことが、何よりのあかしである。

 日興上人もまた、仏像のぞうりゅうは行わず、もっぱら大聖人の文字曼荼羅の御本尊を書写し、門下に授与された(本れんさい7月号を参照)。

しゅうもんようしゅうだつの道具に

 にちかん上人の教学に基づく日蓮しょうしゅうしゅうもんでは、「こうあん2年の御本尊」を「いちだいほう」としている。日寛上人に基づく宗門の教義かいしゃくを、学会もそんちょうしてきた。

 ただし、大聖人は、御自身が御図顕になった御本尊のうちどれか一つだけを正統とする御教示はなされていない。「一大秘法」と記されたゆいいつの御書「にゅうどう殿どのもとしょ」には、「妙法蓮華経の五字」(新1399・全1032)を「一大秘法」として明かされている。日興上人は、大聖人が顕された御本尊を等しく尊重された。

 学会は、どこまでも大聖人の御教示に基づき、末法の衆生のために大聖人御自身が顕された御本尊と、それを書写した御本尊は、全て「本門の本尊」とはいする。その上で、広布をはばむ日蓮正宗の総本山にある「弘安2年の御本尊」はほうぼうの地にあるため受持の対象としない。

 学会員がしんこうの対象とするのは、大聖人ゆいめいの世界広宣流布を現実に進めている創価学会が受持の対象とにんていした御本尊である。学会において授与・受持している、広宣流布だいせいどうをはじめとする会館などの御本尊、そして個人会場や会員たくに安置されている御本尊は、等しく本門の本尊である。

 一方の宗門は、本山にさんけいして「弘安2年の御本尊」をおがまなければ“ざいしょうしょうめつできない”などと信徒をおどしている。御書のどこに、そんな仰せがあるのか。“エセ教義”で御本尊をようしゅうだつの道具とし、大聖人のせいしんはいするだいほうぼうを犯し続けているのだ。

 御本尊は、世界広布のため、末法のみんしゅうきゅうさいのための“ほっつうはたじるし”である。

 池田先生は、御本尊について「その最大の功徳が、人類の宿命のてんかんです。その功徳を引き出すのが、創価学会の信心です」(『池田大作全集』第32巻所収、「御書の世界」)とせんげんした。学会は、御書根本・大聖人直結で、万人の仏界を開く御本尊に強き信心で題目を唱え、世界広布のじっせんつらぬく。