第3回のテーマ 節約とケチは“かみひと⁉2024年7月26日

 今回のテーマは「せつやくとケチは“かみひと⁉」。ユネスコの無形文化遺産にとうろくされている「和紙」※。その使用は、鎌倉時代になどから武士へと広がっていきました。まだまだ紙がちょうだった時代のこと。一枚一枚、大切に使われていたようですよ――。それでは早速、かいつまんでいきましょう。いざ、鎌倉時代!
(※2014年、「和紙:日本の手漉(てすき)和紙技術」が登録された)

「わしだって使いたい!」 和紙が武士へと広がる

 いよいよ夏とうらい
 夏休みの自由研究に向け、いつだって鎌倉時代を感じたいネコたま殿は、「和紙」〈注1〉に注目。昔ながらの「紙すき」をやってみたいとのこと。ネコたま殿、そもそも毎日が夏休みのような気もしますが……。
 それはさておき、まずは紙すきのキットをそろえて、作業をスタート。
 紙の原料をどろどろになるまで水にかし、型にきんいつに流し込み、かんそうさせて――ネコたま殿オリジナルのハガキの完成です!
 初めての紙作りに挑戦したネコたま殿。その「1枚」のありがたさが分かったようです。「紙すき、大好き!」なんて、のどをゴロゴロさせています。

ネコたま殿から、手作りの暑中見舞いのハガキが届きました

ネコたま殿から、手作りの暑中見舞いのハガキが届きました

 日本では、近代に機械による洋紙のせいぞうが始まるまで、手すきの和紙が主に使用されていました。日本における紙の歴史は古く、その作り方が伝わったのは5世紀ごろともいわれています。
 6世紀前半、仏教が日本に伝来。くなった人のようや心の平安を求め、経典を書きうつす「しゃきょう」がさかんになり、そうりょなどが紙を使用するようになっていきました。
 12世紀後半に鎌倉時代がまくを開けると、社会の中心となった武士も、行政や裁判に関する文書を多くあつかうように。
 「わしだって使いたい!」――和紙の使用は武士へと広がり、やがて町人にも広がっていったのです。
 高まるニーズにこたえ、各地で紙が多く生産されるようになりました。さらに鎌倉時代に発達した、商人による流通ルートによって、京都や鎌倉にもどんどん運び込まれるように。地方産の紙が主流になっていったのです。
 鎌倉時代、和歌の分野で、多くのすぐれた歌人が活躍。歴史書や軍記物語、ずいひつしゅうなどの分野でも多くの名著が成立しました〈注2〉。宗教文化が発展し、古典の研究が進んだのもこのころです。
 いずれも、文字を記す「紙」がひっだったのはいうまでもありません。この時代に花開いた文化を支えていたのも、和紙だったのです。
 さらに建築様式としては、のちしょいんづくりもととなるものがあらわれ、「しょうがみ」が多く使われるようになりました。
 現代にも通じる、鎌倉時代の文化。そのこうりゅうと和紙の広がりは、切っても切れない“うるい”関係だったんですね。

「とことんリサイクル!」 「裏返し」のお次は「すき返し」

 鎌倉時代、人々の間でしょうそく(手紙)のやり取りも増えていきました。その手紙が、思わぬところから見つかることもあるようです。
 げんそんする鎌倉時代の書物や日記を見てみると――うっすら反転した文字がけているものがあります。
 もしかして、落書き?
 いえいえ当時は、紙をせつやくするため、役目を終えた手紙などを「」として、裏面を写経や日記などに再利用することが多かったのです。
 「反故紙で、紙をしましょう」なんて、びかけていたのかもしれませんね。
 もともと書かれていた文は「はいもんじょ」とばれ、当時を知るちょうな史料になります。再利用されたことで現代に伝わった手紙からは、人々の心の交流のふんが伝わってきます。
 さすがに、表も裏も使い切ったら、ゴミ箱にポイっ!――と思いきや、まだまだ紙の節約は続きます。
 それが、使用済みの紙を水にかし、再びすいて作る「すき返し紙」。現代の再生紙に当たります。
 てっていして、紙を再利用する鎌倉時代の人々。そうとうケチだったのでしょうか?
 鎌倉時代後期のぶんけんには、当時、一般的に使われていた紙について、1枚が3文だったという記述が残っています。現代の感覚でいうと、1枚300円から600円でしょうか〈注3〉。ちなみに、一定の規格はなかったものの、紙1枚はたて30センチ、横50センチ程度の大きさが多かったそうです。
 いずれにせよ、紙が今よりずっと高価だったことはちがいないでしょう。
 しっけんやくを重んじた鎌倉時代のこと。「再利用、やってみよう!」と、紙も一枚一枚、大事に使っていました。まさに、節約とケチとは“かみひとだったのです。
 現代の私たちも、鎌倉時代の“ものを大切にする精神”に学んでいきたいですね。

 〈注1〉ミツマタ・コウゾ・ガンピなどの樹木の皮を溶かしたものを原料にして、手すきで作る日本古来の紙のこと。
 〈注2〉藤原定家らの歌人が活躍し、『吾妻鏡』等の歴史書、『承久記』等の軍記物語、『方丈記』等の随筆集が成立したとされる。
 〈注3〉鎌倉時代と現代の貨幣の価値について、本連載第2回では、1000文を10万円から20万円とする専門家の見解を紹介した。

【参考文献】久米康生著『和紙文化研究事典』(法政大学出版局)。丸尾敏雄監修『「紙」の大研究①』(岩崎書店)。湯山賢一編『文化財学の課題 和紙文化の継承』(勉誠出版)。神奈川県立金沢文庫編・発行『鎌倉時代の手紙』。加藤晴治著『和紙 歴史篇』(丸善)、同著『和紙 歴史篇Ⅱ』(東京電機大学出版局)。『和紙文化研究 第八号』(和紙文化研究会)。佐藤進一著『新版 古文書学入門』(法政大学出版局)。

その時、日蓮大聖人は――

 の国には紙がない上に、一人一人に手紙をし上げるのははんざつになり、一人でももれれば不満があるでしょう――。〈※1〉
 ざい・佐渡は、紙の確保がこんなんな状況でした。そのような中でも、きょうの門下に思いをめぐらせ、お手紙を送る日蓮大聖人。深きあいが伝わってくる一節です。
 また、佐渡でしっぴつされた「かんじんのほんぞんしょう」は、17枚の紙の表と裏にびっしりと文字がしたためられています。
 一枚の紙があれば、なやめる友をはげませる。仏法の教えを残すこともできる――大聖人は一枚一枚に万人の幸福への思いをめて、文字をしたためられたのでしょう。
 紙の調ちょうたつには、門下のこうけんもありました。大聖人がきょうろんの要点を書かれた文書の裏に、別の文書が書かれていた「しょうぎょうはいもんじょ」がげんそんしています。この紙を大聖人に提供したのが富木常忍です。常忍は幕府の有力なにんつかえるしん。用のんだ紙を入手しやすかったと考えられます。
 大聖人と門下との固いきずながあってこそ、鎌倉時代に説かれた大聖人の教えを、現代の私たちが学ぶことができるのです。

〈※1〉御書新版1291ページ・御書全集961ページ(通解)