「諸精霊追善勤行法要」2024.7.14(日)

 今月13日から16日までの4日間は、お盆の期間です。創価学会では、あす15日を中心に、「諸精霊追善勤行法要」を全国の主要会館で行います(地域によっては旧盆の8月15日に実施)。ここでは、日蓮大聖人の門下への励ましや池田先生のスピーチを通して、仏法の本義に基づいた「追善回向」について学びます。

「生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんば、かなうべからず」(新1721・全1448)――妙法に生き抜く人は、生老病死の荒波を前進への推進力に変える賢者の大船になっていく

「生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんば、かなうべからず」(新1721・全1448)――妙法に生き抜く人は、生老病死の荒波を前進への推進力に変える賢者の大船になっていく

御文

 今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給う。母と子と、ともに霊山浄土へ参り給うべし。その時、御対面いかにうれしかるべき、いかにうれしかるべき。(光日上人御返事、新1267・全934)

通解

 今、光日上人は、わが子を思うあまり法華経の行者となられました。母と子は必ず共に霊山浄土に参ることができるでしょう。その時のご対面は、どんなにかうれしいことでしょう。どんなにかうれしいことでしょう。 

 「あなたこそ即身の仏です。なんと尊いことでしょうか」(新1264・全934、趣意)――日蓮大聖人が、一途な信心の姿勢を最大に称賛された門下に光日尼がいます。
 光日尼は、安房国東条郡天津(千葉県鴨川市天津)在住で、夫に先立たれた女性門下です。大聖人が「容貌も立派で、素直な感じ」(新1251・全928、趣意)と評された息子の弥四郎は武士であり、共に純真な信心に励んでいました。
 ある時、弥四郎は、仕えている主君から戦に参加するよう命じられたようです。苦悩した彼は大聖人の元を訪れ、心境を吐露しました。
 「自分はいつ死ぬのか分かりません。しかも、武士ですので、戦からは逃れることができません」(新1252・全929、趣意)
 生命の尊厳を説く仏教を信仰していながらも、武器を手に取らざるを得ない。人を殺めれば地獄に堕ちてしまう――武士が直面する不条理に、弥四郎は心を痛めていたことでしょう。
 大聖人は経文を引いて、励ましを送られます。その御指導を受けた弥四郎は、「夫のいない母を差し置いて自分が先に死んでしまえば、これほどの親不孝はありません。自分にもしやのことがあったならば、母のことをよろしくとお弟子にお伝えください」(同、通解)と申し上げました。
 弥四郎が孝行息子で、強盛な信心を貫いていたことがうかがえます。しかし、文永11年(1274年)6月、光日尼を過酷な試練が襲います。弥四郎が若くして霊山へと旅立ったのです。

妙法の絆は三世永遠

 大切な人との別れほど、胸を刺す苦しみはありません。ましてや、最愛の息子に先立たれた母の悲しみはいかばかりでしょうか。悲嘆に暮れる光日尼は、息子の訃報を伝えた手紙の中で、大聖人に指導を仰ぎました。
 “わが子は、武士として人を殺さざるを得なかったのです。次は、どのようなところに生まれてしまうのでしょうか。お教えください”(新1253・全930、趣意)
 大聖人は、弥四郎の生前の純粋な信心をたたえながら、たとえ大きな罪を背負ったとしても、母も子も万人成仏の法華経を信じたのだから、罪が消えることは間違いないと教えられました。そして、「亡くなった弥四郎殿は、たとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜に嘆き、追善を行えば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあるでしょうか」(新1254・全931、通解)と、限りない慈愛を込めて、お手紙をつづられました。
 母のひたぶるな祈りによって、断じて弥四郎は成仏できる――この大聖人の御断言は、暗闇に覆われた光日尼の心を照らす“希望の光”になったにちがいありません。真心の追善の祈りには、無量無辺の功徳があるのです。師の渾身の励ましに、光日尼は“悲哀の母”から“妙法の母”へと立ち上がっていきました。
 このお手紙から5年後、大聖人は光日尼のことを「光日上人」と尊称で呼ばれ、「光日上人は、わが子を思うあまり法華経の行者となられました。母と子は必ず共に霊山浄土に参ることができるでしょう」(新1267・全934、通解)と約束をされています。光日尼と弥四郎の母子一体の成仏は間違いないとの仰せです。
 妙法で結ばれた家族の絆は、三世永遠です。妙法の功力を確信し、いかなる時も題目を唱え抜く人の回向の力は一族全員に及ぶのです。
 光日尼は亡き息子を胸中に抱きながら、人生の悲哀を乗り越え、宿命転換を果たしました。この母の蘇生のドラマは、広宣流布の途上で亡くなった家族や同志とも生死を超えて、共々に前進し続けていくことができることを教えてくれています。

池田先生の指導から

 「回向」の本義について、大聖人は「御義口伝」で次のように述べておられる。
 「今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(全712・新991)
 妙法の題目は、全宇宙を照らしゆく力を持っている。その慈悲の大光は、無間地獄にまで至るとの、大聖人の大確信である。
 いかなる権力でも、いかなる財宝でも、いかなる科学でも、成し得ないことがある。それが一生成仏であり、故人への追善回向である。
 回向の根本は、自分自身が御本尊を信じ、広布に励むことである。自身が仏道修行で得た功徳を「廻し向ける」ことが、「回向」の本義であり、真の追善となるのである。
 ともあれ、「彼岸」にせよ、「回向」にせよ、「自分自身の仏道修行」という一点を忘れてしまえば、本来の意義から外れてしまう。
 私たちは最高無上の生命の軌道を、久遠からの同志とともに、歓喜に燃えて歩んでまいりたい。
 (『普及版 池田大作全集 スピーチ』2005年[4])

 妙法で結ばれた故人の生命は、瞬時も離れず、わが胸奥に一体不二である。自分が朗々と唱えゆく題目が、そのまま故人を福徳で包みゆく力となる。自分が希望に燃えて前へ踏み出すことが、故人の未来を照らしゆく光となるのだ。
 亡くなられた方々も、生きている方々も、共に歓喜し幸福になる。これが、偉大なる仏法の追善回向の本義である。
(『随筆 人間勝利の光道』)

お盆の由来

 日本では伝統的に、夏に盂蘭盆の法要を行い、故人をしのんできた。この盂蘭盆を簡略化した表現が「盆」である。日本における盆の歴史は古く、飛鳥時代や奈良時代の古文書には、盂蘭盆に関する記述が見られる。
 盆の由来は、古代インドまでさかのぼる。古代インドでは、仏教修行者たちが雨季の間、一所に集住して行う修養生活(雨安居)の最終日に当たる満月の日に、盛大に供養が行われた。これをサンスクリット(古代インドの文語)で「パラヴァーラナー」といい、それが「ウラヴァーナ」に変化したものが音写されて「盂蘭盆」になったと近年では考えられている。
 そして、仏教が西域に伝播する過程で、この日に供養を行うと過去七世の父母を救うことができるという信仰が生まれ、やがて中国で伝統的風習と結び付き、先祖供養の儀礼として盂蘭盆の行事が形成されていったとされる。
 日蓮大聖人は、盂蘭盆の時期に御供養を届けた門下に、「盂蘭盆御書」という返礼の御消息をつづられている。その中で、神通第一といわれた釈尊の十大弟子の一人・目連が母を救えなかったという話を踏まえて、大聖人の仏法の立場に基づき、真の盂蘭盆供養の在り方を説明されている。
 目連は、餓鬼道に堕ちて嘆き悲しんでいる母を救うために、神通力であらゆる手を尽くしたが、かえって大苦を与えてしまった。大聖人はその理由として、目連が小乗教に固執して法華経を知らず、成仏することができなかったためであると教えられている。そして、妙法の実践を通して自身が成仏することによって、初めて父母を救うことができると示されている。
 大聖人はこの御書で、「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母、仏になり給う。上七代・下七代、上無量生・下無量生の父母等、存外に仏となり給う」(新2026・全1430)と仰せである。広宣流布の実践を通して積み上げた無量の福徳は、自身の成仏につながるのはもちろん、一家一族、先祖や子孫末代まで包んでいくことができるのだ。
 このように、日蓮仏法では、仏道修行に励むことによって積んだ功徳を、先祖や故人に回らし向けることができると説く。この追善回向の本義に基づいて、創価学会では例年、盂蘭盆や彼岸に当たる時期に法要を行い、亡くなられた家族や共戦の同志の安穏と福徳を祈念するとともに、広宣流布に生き抜く誓いを新たにしてきた。
 なによりも、日々の勤行・唱題の実践とともに、広布の実践に励むことこそ、故人への最高の追善回向にほかならない。