戸田先生の獄中闘争(5)(四撃)

 戸田先生は、秋の十月に入ってから、時々、地方裁判所へ呼び出された。地方裁判所へ運んで行く看守たちの中に、戦地から帰ってきた青年で、高橋というのがいた。
 今までに、高橋看守には、三度ばかり咎(とが)められたことがあったので、次の四度目は、どのような形の咎めを受けるのか、と思っていた。
 ことによると、思いきり撲られるのではあるまいか、という恐怖を抱く反面、四度、暴力を受けた時は、それで自分の宿業が変わり、運勢が開ける …… という気持ちがあって楽しみでもあったと、述べられています。

 〔四回目の難〕
 その日は、空が曇っていて、風がなく、なにか苛立(いらだ)ちを覚える陰鬱(いんうつ)な日であった。
 地方裁判所から東京拘置所へ帰ってきた時は、もう午後七時を過ぎていた。
 囚人たちは溜(たまり)で、看守に麻縄から放たれ、手錠を外されていた。
 裁判所での取調べが済むまでに、囚人たちは心の疲労を覚えるらしく、帰って溜へ入ると動作がのろのろしていて手間取るのが例であった。
 厳さんは縄も手錠も免(ゆる)されているから、それを眺めていたのだが、高橋看守が麻縄を腕へ巻いて、囚人たちの手錠を苛々(いらいら)と外しているので、声をかけた。
 「高橋さん、随分、長くかかるね」
 途端(とたん)に、高橋看守が巌さんへ顔を向けたが、面を取替えたように獰猛(どうもう)な顔であった。
 「貴様 なにを生意気をいうか 高橋さんと呼ぶ資格が、貴様にあるか
 「あッ」  
 巌さんは叫んで身体を反らした。
 高橋看守が腕の麻縄を取って振上げたからであった。
 「懲(こら)してやる
 憎々しげに叫ぶと同時に、巌さんの背中は麻縄で烈しく打たれ、それが一遍ではではなく、ぴしり ぴしり ぴしり 濡(ぬ)れた物を叩いているような音を響かせて二十数回続き、溜にいた囚人が総立ちになったのであったが、彼が背中に火が走るような感じを受けたのは、最初の一遍だけ、二遍目からは、きた 四回目 四回目がきた と心で叫んでいるだけで、少しの痛みも感じてはいなかった。
 「これで、赦(ゆる)してやる」 
 高橋看守が力いっぱいに巌さんの背中を打って、汗の粒々を額や鼻の頭に光らせていった瞬間、彼は心の内で、罪が終わった 四回目がきて、罪が終わった と叫んでおり、薄暗い電燈のともっている独房へ帰った時は、顔いっぱいに歓喜を漲(みなぎ)らせており、眼鏡の底の両眼が星のように輝いていた。  (同書・246P)

 概略、獄中の受難について述べてみました。ここで感じたことは、狂暴なる看守たちは、ごく些細なことで権力を傘にきて、自分の感情のまま、囚人たちを殴打していることである。
 牧口先生も、また同じような目に遭われたと思います。「人間革命」 には、次のようなことが載っています。
 
 牧口先生の夫人と長女が、弁当と安全剃刀を差入れして帰っていった。
 牧口常三郎はそれを見送ると、椅子を立って、斉藤刑事の机へ行き、断わりもなく安全剃刀を取った。
 わが家で朝夕に使っていた剃刀が懐かしく嬉しかったのであろう。謹厳な顔を綻(ほころ)ばせて、安全剃刀を感慨深げに眺めていると不意に斉藤刑事の手が伸びて烈しく頬を打った。
 「牧口 誰の許しを受けて剃刀をいじる 警察では刃物は厳禁なんだぞ 万一のことがあったら、誰の責任になると思う 年甲斐もなくわきまえのない奴だ
 斉藤刑事の平手が飛んで、牧口常三郎が烈しく頬を打たれるのを見ると、巌さんの怒りは頂点に達し、ガバッ と椅子を立って、斉藤刑事へ飛びかかろうとしたが、二、三歩出たところで強く後ろへ引かれたので、見ると、長刑事が着物の袂(たもと)を掴んでいた。
 その時から、法華経の正しい信者である牧口常三郎に暴力を加えた斉藤刑事に、巌さんは仏罰があるはずだと確信した。
 特高を首になった斉藤刑事がわざわざ訪ねてきて、不良ばかりの子供が三人いるが、その中で、この子ばかりは、今に良くなると頼りに思っていた末の子が、夫婦が知人の結婚式へ出席した留守に、近所の貯水池へ頭を突っ込んで死んだと話したのは、彼の出獄後であった。  (同書・205P)
 
 そのような暴力の前に、戸田先生は初めは訳も分からず、ただ驚くばかりであった。しかしそうした中で、不思議な縁で法華経を読み、題目をあげ抜いていったとき、殴打されることにより、自分自身の宿業を消しているのだ、ということが理解できるようになりました。
 『御義口伝』 の常不軽品のところに、次のような教えがあります。

 第十六此品の時の不軽菩薩の体の事
 御義口伝に云く不軽菩薩とは十界の衆生なり、三世常住の礼拝の行を立つるなり吐く所の語言は妙法の音声なり、獄卒が杖を取つて罪人を呵責するが体の礼拝なり敢(あえ)て軽慢せざるなり、罪人我を責め成すと思えば不軽菩薩を呵責するなり折伏の行是なり。(767P) と仰せです。

 「獄卒が杖を取つて罪人を呵責するが体の礼拝なり敢て軽慢せざるなり」 とは、獄卒が杖を取つて罪人を呵責するのも、その獄卒の本体としての行動であり、罪人の罪を滅せしめ、善性に立ち返らせんとの目的に立っての行動である。
 ゆえに、これは不軽菩薩の本体・本質の礼拝行なのであり、あえて罪人を軽慢しているものではないのである。

 「罪人我を責め成すと思えば不軽菩薩を呵責するなり折伏の行是なり」 とは、獄卒が呵責するのを、罪人が自分の罪障を見つめず、また獄卒の立場を認めず、獄卒が悪意をもって自分を呵責するのだと思い怨恨(えんこん)を懐けば、それは不軽菩薩を呵責して罪を得た、上慢の四衆の生命と同じことになる。
 ゆえに、どんなに反対され迫害されても、それは自分の罪障を消しているのだと、喜んで受けきっていくべきであり、それが、我々の生命に約したときの “不軽の行” である。
 そして、反対する者の仏性を信じて、あえて迫害を受けても、妙法を教えていくのが “折伏の行” である。
 
 迫害されても感謝し、難に遭っても喜ぶことなんか、凡人のとうてい成し得ることではないが、仏法の眼は、生命の因果律を解明して、かくなる大境涯のあることを教え諭(さと)しているのである。
 日蓮大聖人は、この法理を自ら身読なされて、種々の大難に遭われても 「流人なれども喜悦はかりなし」(1360P) と申され、竜の口で死罪に処しようとした平左衛門尉 等をも、「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」(916P)・ 「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(917P) と申されている。
 その上に、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(509P) と、仏様の大慈悲心を以って救わんと願われました。

 戸田先生は、看守が殴打するのも、全部、自分の宿業を消すために、打ってくれているのだと確信でき、(きた 四回目 四回目がきた) と心で叫んで、感涙にむせびました。
 そして、見事に宿命は転換され、程なくして “獄中の悟達” という大楽を得ることが出来ました。