しゃくそん

 ゆうきゅうなる大河も、げんりゅういってきから始まる――しゃくそんから法華経、日蓮大聖人、そして創価学会へといたる仏法の人間主義のけい。世界に広がるみんしゅう仏法の源流をたどりたい。ここでは、小説『新・人間革命』第3巻「ぶっ」の章を中心に学びながら、釈尊のせきを追います。(月1回けいさい。前回は6月11日付)

文化の中心地へ

台頭する自由思想家たち

 「しょうろうびょう」という人間のこんげんてきのうの解決を求め、求道の旅に出たわかしゃくそん。自ら選んだ道とはいえ、父王や愛する妻子とのべつは、彼のむねを苦しめたにちがいない。しかし、青年のきょうちゅうには、それ以上にさかるものがあった。
 じゅうしゃともない、未明の大地を愛馬に乗って進む釈尊は、王都・カピラヴァットゥ(じょう)から南へ下っていく。やがて、アノーマー()川をわたったところで、王子としてのそうしんと愛馬を従者に渡して、“目的を果たすまで、城にはもどらない”と、父と妻に伝えるようたくし、自ら、刀でかみを切った。
 一人、たくはつをしながら釈尊が目指したのは、当時、強大国として栄え、新しい文化の中心地でもあったマガダ()国である。
 その首都・ラージャガハ(おうしゃじょう)までは、カピラヴァットゥから約600キロもの道のり。出家してから7日目にして、たどり着いたとする仏伝もある。
 当時、古代インド社会の変動期だった。
 釈尊の時代からさかのぼること1000年近く昔、自らを「アーリア」としょうする人々が西北インドに定着し始めたといわれる。その文化は、やがてガンジス川りゅういきにまで広がり、農耕社会が形成され、身分階級(せい制度)もできる。そこでとっけんてきな地位を得たのが、ヴェーダせいてんに基づいてさいれいをつかさどるバラモン階級だった。
 ところが、釈尊の時代に近くなると、領土拡大の戦いを通して軍事・政治をになう王族・武士(クシャトリヤ)のけんが高まり、交易によって富を築く商工業者(バイシャ)もちからを増していく。
 バラモンのけんが次第にらぎ始め、代わって台頭してきたのが、都市に集まる新しい自由思想家たちである。バラモンと区別された彼らはしゃもん(サマナ)とばれ、人間の運命が神や祭祀によって決定づけられるとする、伝統的なバラモンの思想をみとめなかった。とりわけ、せんえいてきな主張をしていた代表的な6人の指導者(「ろくどう」)がいたことが、初期仏典に記録されている。
 “だれを師とするべきか”――。新たな思想・文化がどうする都市で、托鉢を続けながら正しき道を求める釈尊だったが、「六師外道」らが説くような、道徳ていてきな要素が強いきょくたんな思想には、なじめなかった。
 そうした中、城下を歩く釈尊の姿すがたを目にめたのが、マガダ国王のビンビサーラ(びんしゃ)である。
 「気品をたたえ、所作のりっなあの青年は、ただ者ではない」
 王は早速、釈尊がいるというパンダヴァ山(びゃくぜんせん)をたずねた。「あなたはこうな王族の方と見受けました。ぜひ、わが国の軍隊をひきいてほしいと思っています。どのような生まれの方なのでしょうか」
 大国の王をりょうするほど、ひときわかがやくものがあったのかもしれない。した釈尊はにゅうみをかべて応じる。

(小説『新・人間革命』の挿絵から。内田健一郎画)

(小説『新・人間革命』の挿絵から。内田健一郎画)

ぜんじょうぎょうの果てに

自身とのきびしい対決にいど

 「私は太陽のまつえいの種族であるしゃ族の出身です。すでにぞくえいてて求道に努めており、その他に望むものはありません」
 ならば、と王は言葉をぐ。「あなたがじょうどうしたあかつきには、この地をおとずれ、私や、わが民のために教えを説いてください」
 求道のへんれきを続けるしゃくそんは、やがてぜんじょうめいそうする修行)の大家といわれるバラモンのせんにんに師事したと仏伝はしるす。
 最初にたずねたせんにんは、「しょしょ」という、自身のしゅうちゃくしばられないきょうを目指すことを教え、2人目のせんにんは「そうそうしょ」(おもうにあらず、想わざるに非ざる境地)という、いわば無念無想の境地を目指すことを教えるものだった。
 修行にはげんだ釈尊は、すぐにそれらの境地を得たが、しょうという根本的問題の解決に対して、そうした禅定家の教えの無力さをつうかんしたようだ。
 “私が求めるさとりは、こんなものではない”。真実の覚りを求め、せいじゃくの地をさがして旅する釈尊が次に訪れたのは、ラージャガハの西方を流れているネーランジャラー川(れんぜん)に沿った、ウルベーラーという地だった。現在のブッダガヤからほど近い場所である。
 日光をびた川岸のすなが美しくかがやく。村落には、緑がしげる林があり、ぎょうに励む修行者も多くいた。
 当時、インドでは、人間の精神はじょうな肉体にそくばくされていると考えられており、その肉体のちからを弱めて精神的自由を得るために苦行がじっせんされていた。釈尊もまた、この林の中で苦行に入る。
 とうてつしただつを得るために開始した、しゅんげんとの対決。釈尊のそれは、他の修行者とは比べものにならないほどげきれつさをきわめた。こくだんじきを続けたり、墓地で死体のほねどことしたり、ぶつを食べることもあった。
 パキスタンのラホール博物館には、ガンダーラ美術のすいとして知られる苦行中の釈尊像がしょぞうされている。おとろえてほねと皮だけになり、むねにあばら骨と血管がき出た姿すがたが苦行のはげしさを物語る。“釈尊は死んだのではないか”と案じる修行者もいたほどだった。
 極限までの苦行を数年間、続けた釈尊だったが、ついにだつすることはなかった。この時の釈尊の心情を、『新・人間革命』第3巻「ぶっ」の章は、こう描く。
 「“官能のおもむくままによくぼうの快楽にふける。もとより、それは、いやしく、おろかで、無益なことだ。
しかし、はげしい苦行をし、自分を苦しめることに夢中になっても、本当の悟りを得ることはなかった。それも、ただ苦しむばかりで、下等で無益なことだった……”」
 釈尊は苦行をてて林を出た。きょくたんな苦行主義もまた、真実の道ではないと自覚したのだ。
 すいじゃくした体を引きずるようにして、ネーランジャラー川のほとりまでやって来た。そそぐ陽光は、川面にきらきらとはんしゃしていた。(次回に続く)

[VIEW POINT]すうじく時代

 「すうじく時代」――ドイツのてつがくしゃカール・ヤスパースは、社会の変動をはいけいとして、現代まで続く人類の精神ばんが築かれた紀元前の時代を、そうびました。
 すなわち、紀元前5世紀ころを前後して、インドでしゃくそんの仏教がたんじょうしたことをはじめ、中国ではこうじゅきょうろうそう思想、中東ではキリスト教やイスラム教の原型である旧約思想、そしてギリシャではてつがくの諸思想など、後にへんする思想の種子が、世界同時多発的にいたのです。
 池田先生は、ローマクラブのホフライトネル博士との対談で、かんきょうかいかくへいの問題など、現代文明が直面する数々の人類的こくふくするためにも“「第2の枢軸時代」が切実にようせいされている”と語りました。
 まさに旧来の価値観がらぎ、社会が大きく変動する今、人類をぜんどうしゆく確たる“精神のじく”が求められてやみません。こうした時代の要請に応えるほこりをむねに、万人の生命にそんげんせいを見いだす日蓮仏法のてつを、日夜、語り広げているのが創価学会員です。
 人類のこうきゅう平和の実現という、時代建設の使命にいどむ私たちのそくせきは、やがて、だいみんしゅう運動として人類史にさんぜんかがやくにちがいありません。