〈池田先生 永遠の指針〉 7・3「戸田先生しゅつごくの日」「池田先生にゅうごくの日」――「随筆 新・人間革命」〈ほまれ「7・3」〉から2024年7月3日

  • 創価のの勇者よ 立ち上がれ!
  • 「正義は必ず勝つ」とのドラマを

 きょう7月3日は、創価の人権闘争の歴史にきざまれる、師弟正義の原点である。1945年(昭和20年)のこの日、軍部政府によりとうごくされていた第2代会長・戸田じょうせい先生がしゅつごくした。また57年(同32年)の7月3日には、池田大作先生がじつこんの公職選挙法はんようたいされ、にゅうごく。同月17日に出獄した池田先生は、大阪大会で“最後は信心しきったものが必ず勝つ”とうったえ、みずからの無実をのちほうていとうそうで証明した。池田先生はかつて、この「7・3」にみゃくつ師弟の歴史を「出獄と 入獄の日に 師弟あり」とんだ。「7・3」の歴史と真情がつづられた「随筆 新・人間革命」〈ほまれ「7・3」〉(聖教新聞1999年7月3日付)をけいさいする。

中之島の大阪市中央公会堂。「東京大会」が行われた5日後の1957年7月17日に同公会堂で「大阪大会」が行われ、出獄した池田先生が“最後は信心しきったものが必ず勝つ”と訴えた(2007年11月、池田先生撮影)

中之島の大阪市中央公会堂。「東京大会」が行われた5日後の1957年7月17日に同公会堂で「大阪大会」が行われ、出獄した池田先生が“最後は信心しきったものが必ず勝つ”と訴えた(2007年11月、池田先生撮影)

 えんだいなる人類の目的のために、仏法はある。
 何ゆえかたされぬ生命を、いなき、まんぞくしきった完成に向かってしょうさせゆくために、しんこうはある。それゆえに、私たちは、長く、あまりにも長く、広宣流布のために、戦わねばならない。
 一歩もこう退たいできない。
 つうの人生の運命を変えゆくために!
 時代のやみやぶり、天れたる七月三日!
 一九四五年(昭和二十年)のその日は、戦時中、ぐんせいだんあつと戦った、戸田じょうせい先生がしゅつごくされ、広宣流布に一人立たれた日である。
 それから十二年後(一九五七年=昭和三十二年)の、同じ七月三日、私も“”として、ほまれあるほうなんつらなったのである。
  
 とせ空港から大阪に向けて飛び立った私は、ちゅうぎのために、羽田空港にりた。空港の待合室には、戸田先生が待っておられた。大阪けいしゅっとうする私のために、すいじゃくした体で、わざわざ空港までおいでくださったのである。
 戦時下のごくちゅうとうそうで、ろうごくがどのような場所か、しつされていた先生は、病弱な私の体を心配された。
 私のかたびた先生の手に、ちからがこもった。
 「死んではならんぞ。大作、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐにけつけて、お前の上にうつぶしていっしょに死ぬからな」
 深く、とうとき師のあいに、私はたかしんぞうどうおさえることができなかった。
 ゆうこく、私はみずから、真実ときょとを明確にするために、決意のきわまる心をもって、大阪府警に出頭した。
 そして、午後七時、待ち受けていたかのように、たいとうごくされたのである。戸田先生のしゅつごくと、ほぼどうじつこくであった。妙法とは、なんと不思議なる法則か。たんの心は、かつぜんと開かれ、えつへと変わった。
 時に、私は二十九歳――。
 私の逮捕は、全くのえんざいであった。参院大阪地方区のけつ選挙(一九五七年四月)で、最高責任者の私が、ばいしゅう等の選挙はんを指示したというようである。熱心さのあまり、べつほうもんをしてしまい、逮捕された会員がいたことに、私はむねいためていたが、買収など、私とは全く関係のないことであった。
 だが、新聞各紙には「池田しょうがい部長を逮捕」の見出しがおどり、「創価学会の“でんげき作戦”といわれる選挙違反に重要なやくわりはたしていたうたがい」などと、さかんに書き立てられた。
 当時、マスコミは、当局の意向をそのままはんえいし、選挙違反は、学会の組織的はんこうであり、学会は、反社会的団体であるかのようなイメージを流していったのである。
 こうりゅうちゅう、関西の友には、とくに、多大なご心配をおかけした。一目、私に会いたいと、えんてんに、何時間も立っていた方々もおられたとうかがった。
 もうわけない限りである。
  
 当局は、逮捕した会員たちをおどし上げ、選挙違反は、ことごとく、私の指示であったとするきょきょうじゅつをさせ、罪をねつぞうしていった。
 私への取り調べは、こくを極めた。
 夕食もきで、深夜まで責め立てられたこともあった。

「7・3」から師弟勝利の前進を!――池田先生が第51回本部幹部会・新世紀第5回関西総会で友を激励(2005年7月、東京・八王子市で)

「7・3」から師弟勝利の前進を!――池田先生が第51回本部幹部会・新世紀第5回関西総会で友を激励(2005年7月、東京・八王子市で)

 獄中で、私は御書をはいした。本も読んだ。ユゴーは、私に、「戦え! 負けるな!」と、はげましと勇気を送ってくれた。そのユゴーはぼうめい十九年。インドのネルーもとうごく九回、ごくそう約九年におよんでいる。
 いわんや、大聖人を思え! 牧口先生を思え! 戸田先生を思え!
 私は、断じてくっしなかった。創価のほこりがあった。
 すると検事は、ついに、罪をみとめなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する、と言いだした。きょうはくにも等しいげんである。
 私はよい。いかなるはくがいにもえる。しかし、先生のお体はすいじゃくの極みにある。再度の投獄ともなれば、死にも、つながりかねなかった。
 私ののうが始まった。
 身に覚えのない罪など、みとめられるはずはない。
 だが、わが師までえんざいで逮捕され、ましてごくするような事態は、絶対にけなければならない。
 “けんりょくしょう”のいんけんさ、おそろしさをはだで感じつつ、ねむれぬ夜を過ごした。
 そして、決断した。
 “ひとたびは、罪をみとめるしかない。そして、さいばんの場で、必ず、無実を証明して、正義をまんてんに示すことがけんめいかもしれない”と。
 その日から私の、まことのじんけんとうそうが、「正義は必ず勝つ」との大逆転のドラマが開始されるのだ。
  
 戸田先生は、七月の十二日には、くらまえの旧国技館で東京大会を開かれ、私のそくしゃくほうを要求された。また、足もともおぼつかぬしょうすいしたお体で、すりにしがみつくようにしてかいだんのぼり、大阪地検にもこうに行かれた。
 後にその話を聞き、師のありがたさに、私はなみだした。
 広宣流布とは“権力の魔性”とのそうぜつなるとうそうである。メロドラマのような、その場かぎりの、浅はかなかんしょうの世界では断じてない。
 大聖人は、だいなんあらしの中、「もとよりぞんの上」(全951・新1277)と、げんぜんおおせられた。
 私は、おん戸田先生の弟子である。もとより「かくめいは死なり」とかくしてきた。広宣流布とは、じゅんなんおそれぬ創価の勇者によってのみ、じょうじゅされるせいぎょうといえるのだ。
  
 青年よ、みんしゅうの勝利のために“師子”となって立ち上がれ!
 そして、友のために走れ!
 何ものも恐れるな!
 いでよ! いくまん、幾十万のわが門下たちよ!
  
 時代のすべては、やがて移り変わる。
 花がみだく時もあろう。あくたちが正義をほうむろうとするきょうもあろう。しかし、おうごんの道をつくれ!
 歩め! ごくぜんの一歩をすのだ!
 創価のたからである、師弟不二なるわかき弟子たちよ!