戸田先生の獄中闘争(4)(三撃)

 その後、検事の取調べは一月(ひとつき)ばかりで済み、判事の取調べがはじまっても、一月ほどで済めば、正月前後には帰れる …… そう目算して、ただただ帰りたい一念の拘置所生活でした。
 諸般の心配ごとの苦悩を、小説を読みふけって消そうとしていました。そうして、正月に読む面白そうな小説を選んで申込んだところ、間違って配達されてきたのは、『日蓮宗聖典』 であった。
 戸田先生は、これは何か 意義のあることであると感じられて、昭和十九年正月元旦から、毎日、法華経は、どこまで、題目の数は一回幾百、一日一万以上あげるということを、実践しはじめました。 
 そして法華経を白文で三度読み返しましたが、釈尊の本懐がどんなものなのやら、(仏とは、いかなる実在か……)、(南無妙法蓮華経とは、いかなる実体なのか……)、御自身には、汲取ることが出来なかった。
 先生は、白文の法華経を前にして、思索に耽(ふけ)り、思索に疲れると、題目を唱え、題目を唱えて、気力を回復してくると、思索に没入して、それで解らなければ、もう一歩も先へ進まぬと、背水の陣を張って、法華経と対決いたしました。
 
 三月初旬の寒い日であった。
 巌さんは法華経の開経である無量義経を前にして、眼鏡の底の眼を鋭く光らしていた。
 開経とは、本経を説かれる前の予備、下準備に説かれる序経のことで、論文に序論、本論、結論とある …… その序論に当たるのだ。

 「……其の身は有に非ず亦無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず、方に非ず円に非ず短長に非ず、出に非ず没に非ず生滅に非ず、造に非ず起に非ず為作に非ず、坐に非ず臥に非ず行住に非ず、動に非ず転に非ず閑静に非ず、進に非ず退に非ず安危に非ず、是に非ず非に非ず得失に非ず、彼に非ず此に非ず去来に非ず、青に非ず黄に非ず赤白に非ず、紅に非ず紫種種の色に非ず……」

 巌さんの眼鏡の底の眼は無量義経の徳行品第一を読んで行って、偈(げ)のところへくると、白い炎のように光って、最早、眼が読み進んでいるのではなく、頭で読んでいるのでもなく、彼はその一字一句へ逞(たくま)しい身体を叩きつけているのだった。
 この時、巌さんは仏の三身の説……仏身を三つに分けて、法身、報身、応身とされていることを知らない。
 天台大師が 「止観」 で境について法身となし、智について報身となし、用を起すを応身となすといって、真理の主体としての法身、その真智の霊体としての報身、その現実の救済者である応身とを見ている、その三身の説を知らない。
 彼はただ仏の実体を汲取ろうとして思索に入り、応身の説は略(ほぼ)分かるような気がしたが、無量義経で説かれている法身、報身の説は、いくら思索を重ねても頷(うなず)けない。
 思索を打切って題目を唱えだした声が独房に響き渡り、それが消えると、彼は死物狂いの思索に入っている。
 「仏とは生命なんだ
 巌さんが机の前で叫んだ時、凍った海底のように、寒さを湛(たた)えて シン となっていた部屋に、強く両手を打合わせた音が ぱあん と響いた。
 「仏とは、生命の表現なんだ 外にあるものではなく、自分の命にあるものだ いや、外にもある それは宇宙生命の一実体なんだ
 巌さんは一人叫びつづける。紅い血が頬に躍っており、眼鏡の底の眼が妖(あや)しいまでに輝いている。
 「仏とは生命なんだ
 巌さんは椅子を立って大きく呼吸をした。それから両手を握り合わせて部屋の中を歩き廻ったが、ふと、早春の薄陽(うすび)が射している窓を見て足を止めた。
 (ほう 四時間も経っていたのか)
 早い昼食を済ませて思索に入ったのに、午後三時になっている。
 ………
 (よし 大聖人の御遺文を読んで照らし合わせてみよう
 巌さんが躍り上がるような歓びに包まれて机へ行こうとしたら、廊下から声が聞こえてきた。
 「入浴用意」   (戸田・人間革命下・236~239P)

 池田先生の 『人間革命』 の記述 ―→ ここから
 
 〔三回目の難〕
 入浴は、月に三回か四回で、以前はゆっくり入れたそうであるが、今は入浴時間は五分、看守たちが何月何日入浴 …… と拘置所の日記へ書くための入浴で、囚人に身体を洗わせるためではない。
 戸田先生は三十分も待たされて、身体は冷切ってしまい、急いで入ろうとすると、風呂の湯は熱湯であった。…… 水を加減して身体へかけたが、冷切っている身体は温まらない。
 もう一度と思って湯を汲んだが、…… 後の者が困ると考え、お湯を無駄にしないようにと、体にかかった湯が風呂へ落ちるように、身体を斜めにして浴びた。湯を粗末にしなかったことを、心の内で喜んだ時であった。

 「この野郎 町の風呂へでも入っている気か
 湯煙が濛々(もうもう)と渦巻いている風呂場に、看守の怒鳴り声が響いたので、巌さんが振返ると、怒気を含んだ顔が近付いていた。
 「貴様 生意気に、悠々(ゆうゆう)と湯を浴びたろう けしからん奴だ 横着野郎
 看守の罵声(ばせい)が轟(とどろ)くと同時に、彼の頬はぴしゃり ぴしゃり ぴしゃり 三度、音を立てた。
 巌さんは手桶を置いて立つと、腕を伸ばして、看守の胸を掴み、燃上がっている忿怒を叩きつけようとしたが、次の瞬間、唇を強く噛んで手を放した。
 権力をもっている看守の前に、囚われの身は狼の前の子羊も同様なのだ。
 彼は激情を抑えて手拭(てぬぐい)を絞り、身体を拭いていると、両眼からはらはら涙が落ちた。
 「今日で三度目 ……」
 巌さんは独房へ帰って行きながら、ふと、呟(つぶや)いた。
 警察の留置場で一度 …… ここへきてから二度 …… 三度目になる。
 (そうだ もう一度、撲(なぐ)られるぞ 四度目に撲られたら、それは帰れる時だ)  (同書・ 240P)

 戸田先生は三度目の後、(そうだ もう一度、撲られるぞ 四度目に撲られたら、それは帰れる時だ) と感じられました。
 どうして四度目になるのか、述べられておりませんので分かりません。ただ、そのように感じられた三度目の難は、「仏とは生命なんだ」 と悟られた直後であります。
 それまでに、法華経を三度も読み返し、題目を唱えぬいていったとき、殴打され苦しまなければならないのも、全部、自分自身の宿業であり、看守がそれを消してくれているのだということが解かりました。
 四度目のことも、生命の因果の理法を深く洞察され悟られた、戸田先生の深いご境涯の上からの、感得されたものであろうと思います。