☆ア「大白蓮華 昭和35年6月号 特集・創価学会第三代会長就任」 創価学会/池田大作/戸田城聖 日蓮宗 


さしでひもとく小説「新・人間革命」〉 創価三代のじんけんとうそう

     広宣流布は永遠にほとけとのとうそうです。それは、みんしゅうはくがいしようとする“けんりょくしょう”との不断の戦いにほかなりません。ここでは、内田健一郎氏のさしとともに、小説『新・人間革命』につづられた創価三代の会長のじんけん闘争をしょうかいします。※小説の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

    1943年(昭和18年)6月
    第27巻「正義」の章
    しんほうつらぬいた師弟

     広宣流布をわすれ、そのじっせんを失えば、なんが起こることはない。だが、そうなれば、大聖人のせいしんを、たましいを、ることになるのだ。一九四三年(昭和十八年)六月、それを物語るおどろくべき出来事が起こった。いわゆる「神札事件」である。
     国家神道を精神の支柱にして、戦争をすいこうしようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきた。(中略)
     しゅうもんは、会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖ら学会幹部に登山を命じた。(中略)「学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか」との話があったのだ。宗門は、すでに神札を受けることにしたという。軍部政府のだんあつおそれ、げいごうしたのである。
     神札を受けることは、しょうほうしょうの根本にかかわる大問題である。また、信教の自由をほうし、軍部政府の思想統制にしたがうことでもある。牧口は、決然と答えた。
     「しょうふくいたしかねます。神札は、絶対に受けません」
     彼は、「時のかんりといえども仏法にそうしてかまえばこれもちからざること」(全1618・新2196)との、日興上人のゆいかいのうえから、神札をきょしたのである。
     牧口のこの一言が、正法正義の正道へ、大聖人門下のほまれあるしんほうの大道へと、学会を導いたのだ。その場を辞した牧口は、げきした感情をおさえながら、愛弟子の戸田に言った。
     「私がなげくのは、いっしゅうほろびることではない。一国が眼前でみすみすほろび去ることだ。しゅう大聖人のお悲しみを、私はひたすら恐れるのだ。今こそ、国家かんぎょうときではないか!」
     弟子は答えた。
     「先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生のおともをさせていただきます」
     創価の師弟とは、しょうをかけた広宣流布へのたましいの結合である。
     それからほどなく、牧口と戸田は、「けいざいならびに「治安ほうはん」のようで、たいとうごくされたのだ。(121ページ)

    1957年(昭和32年)7月
    第17巻「みんしゅうじょう」の章
    日本の「夜明け」をちか

     〈山本伸一は、無実の選挙はんようで7月3日にたいされ、こくな取り調べを受ける。検事は彼に「罪をみとめなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する」とせまった〉
     伸一ののうは深かった。
     “戸田先生あっての私の人生である。
     いかなることがあっても、私は先生をお守りするのだ。
     では、検事の言うままに真実をて、うそをつくのか。それでは、みずからの手で愛する学会をけがすことになりはしないか……”
     伸一の心は、はげしくうごき、深夜のどくぼうもんが続いた。
     彼のむねには、ふんほのおさかっていた。苦悩は、どおし彼をさいなみ続けた。
     しかし、一念におくごうしんろうくしゆかんとするいのりのてに、彼の心は決まった。
     “ひとまずは、自分が一身に罪をおう。そうすれば、戸田先生をお守りできる。
     あとは、さいばんの場で、真実を明らかにするのだ”
     そして、七月十七日、伸一は大阪こうしょを出たのである。
     後年、伸一は、自身が逮捕された七月三日を、こう句にんでいる。
      
     しゅつごく
       にゅうごくの日に
          師弟あり
      
     七月の
       三日わすれじ
          富士あお
      
     七月三日を日本の「夜明け」にすることこそ、彼の固いちかいであった。
     それには、裁判に勝利をおさめることはもちろんだが、仏法の人間主義の旗のもとに、各地に人道と正義と平和の強固なみんしゅうの連帯をきずき上げることだ。
     そして、民衆を支配しよくあつするちからとしてくんりんするけんりょくを、民衆の手に取りもどし、民衆を守る力としなくてはならぬ。
     伸一は、けんな人間主義の民衆じょうを築き上げ、しょうがい、権力のしょうと戦い続けることを、深く、深く、心にちかった。(247ページ)

    1962年(昭和37年)1月25日
    第5巻「」の章
    けんりょくしょうてっていこうせん

     〈山本伸一は無罪――「大阪事件」の判決が出された。関西本部にもどった伸一は、けんりょくしょうとのとうそうへの決意を語る〉
     「学会がみんしゅうの旗をかかげて戦う限り、権力や、それにげいごうする勢力のだんあつは続くでしょう。この事件ははくがいの終わりではない。むしろ、始まりです。
     ある場合には、法かいしゃくをねじげ、学会をほうな団体に仕立て、断罪しようとするかもしれない。また、ある場合には、かつての治安ほうのような悪法をつくり、弾圧に乗り出すこともあるかもしれない。
     さらには、学会とは関係のない犯罪や事件を、学会のわざであるとけんでんしたり、ありとあらゆるスキャンダルをねつぞうし、流したりすることもあるでしょう。また、何者かを使って、学会にはんてきな人たちにいやがらせをし、それがあたかも学会の仕業であると思わせ、おとしいれようとするぼうりゃくもあるかもしれない。
     ともかく、魔性の権力と、学会をにくむあらゆる勢力が手を組み、しゅだんを選ばず、民衆と学会を、また、私と同志をかんさせて、学会をかいめつに追いもうとすることはちがいない」
     (中略)
     「そうした弾圧というものは、きそい起こる時には、いっせいに、集中ほうのように起こるものです。
     しかし、私は何ものもおそれません。大聖人は大迫害のなか、『世間のとがいちぶんもなし』(全958・新1288)と断言なされたが、私も悪いことなど、何もしていないからです。だから、権力は、謀略をめぐらし、無実の罪を着せようとする。
     私は、権力の魔性とはてっていこうせんします。『いまだこりずそうろう』(全1056・新1435)です。民衆の、人間の勝利のためのじんけんとうそうです」
     それは、権力のてっち切った王者のを思わせた。彼の目には、くつの決意がみなぎっていた。
     創価学会のあゆみは、つねに権力の魔性との闘争であり、それが初代会長の牧口常三郎以来、学会をつらぬく大精神である。(353ページ)

    1983年(昭和58年)8月8日
    第30巻〈下〉「せいがん」の章
    人の心は支配できない

     〈山本伸一に「国連平和賞」がおくられた。これは伸一と学会の平和運動をたたえるものであり、そのげんりゅうは初代会長・牧口常三郎の軍部政府のだんあつとの戦いにある〉
     軍部政府が強要する神札を公然ときょすることは、戦時中の思想とうせいにあって、国家けんりょくたいし、思想・信教の自由をつらぬくことである。それは、文字通り、命がけのじんけんとうそうであった。事実、牧口常三郎は、たいよくねんの一九四四年(昭和十九年)十一月十八日、しゅうそうごくしゃしょうがいを終えている。
     思想・信教の自由は、本来、人間に等しくあたえられたけんであり、この人権を守りつらぬくことこそ、平和のもといである。
     万人に「仏」を見る仏法思想は、人権の根幹をなす。ゆえに、その仏法のじっせんしゃたる牧口は、人間をしゅだんする軍部政府との対決をなくされていった。
     (中略)
     そもそも創価学会の運動の根底をなす日蓮仏法では、人間生命にこそこうの価値を見いだし、国家をぜったいすることはない。大聖人は、ばくの最高権力者を「わづかの小島のぬし」(全911・新1227)と言われている。
     また、「王地にうまれたれば身をばしたがえられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(全287・新204)ともおおせである。王の支配する地に生まれたので、身はしたがえられているようでも、心を従えることはできないと断言されているのだ。このもんは、ユネスコがへんさんした『語録 人間の権利』にもしゅうろくされている。
     つまり、“人間は、国家や社会体制にれいぞくしたそんざいではない。人間の精神を権力のてっにつなぐことなどできない”とのことである。まさに、国家をえたへんてきな価値を、人間生命に置いた人権せんげんにほかならない。
     もちろん、国家のやくわりは大きい。国家へのこうけんも大切である。国のかたのいかんが、国民の幸・不幸に、大きなえいきょうおよぼすからである。大事なことは、国家や一部の支配者のために国民がいるのではなく、国民のために国家があるということだ。(240ページ)