戸田先生の生命論 (5)(池田先生のお話し)

 池田先生は 「人間革命第四巻」 において、戸田先生の 「生命論」 の卓越性について、色々な面から述べられています。

 池田先生は死後の生命の存続について、西洋哲学では 「有無」 の両極端に要約し、「空」 とか 「中」 という概念にとぼしい。「空観」の理解なくして、生命は絶対に理解できない。空観の妙が、そのまま生命の連続する姿を示す、不思議さなのである、 と仰せられ 「永遠の生命」 を理解するためには、どうしても 「空」 の概念の理解が必要であると述べられています。
 その難解な 「空観」 の概念を、戸田先生は、日常のありふれた事柄を譬えにして、我われが理解できるように解かりやすく説いて下さったのである。

 彼(戸田) は、この面倒な死後の生命について、科学的に実証できない現在、これは一応、仮説とみなされても仕方ないと思った。ただ、この仮説を素直に信じ、真面目に行じた人たちの人生が、見事に自己の宿命を転換させ、即身成仏を実証している事実だけは、彼は身をもって知っていた。この仮説が、いつかは必ず真実であると証明される時が来ることを、彼は深く確信していた。

 三千年まえに確立した仏法の宇宙観に対して、二十世紀半ばにいたって、ようやく現代天文学が、それとは知らず、日に日に科学的証明を加えてきている。おなじく戸田城聖の 「生命論」 も、やがてその真実が証明される日が来るにちがいない。東洋の叡智ともいうべき鋭い直観を、現代は無視することができない趨勢(すうせい)になってきているのだ。
 ただ、この叡智の真髄が、日蓮大聖人の生命哲学にあることを、世界の現代知識人は気がつかないし、たとえ気がついても信じようとしないだけである。 (文庫・人間革命4巻・49P)

 池田先生は、“東洋の叡智ともいうべき鋭い直観を、現代は無視することができない趨勢になってきている” と仰せです。今日この頃の世相を見るに、実に天変地夭・飢饉疫癘とうたわれている 「立正安国論」 の時代とよく似ています。

 御本仏・日蓮大聖人の御生誕の国でありながら、日本民族は宗祖の教えを信じようともせず、あまつさえ、明治以降は外道である国家神道を、国を挙げて信奉するという大謗法を犯した結果、亡国の憂き目を喫したのである。

 これに懲(こ)りた民衆や国家は、政治・教育等の公の場から宗教を排除した結果、その精神性や道徳・倫理性がなくなり、羅針盤もなく大洋をさまよえるような、今日の混沌の世情となってしまった。

 戦後、その精神の空白に取って代わったのが、経済と科学である。民衆はお金さえあれば、科学が発展すれば、世の中は幸福になれると思った。
 しかし、経済も人間の欲望の前に、科学も大自然の脅威の前では無力であることを “3・11 東日本大震災” は証明した。後に残ったのは、これらに対する不信感と虚無感だけである。
 
 いま、この不信感と虚無感から脱する道は、今までのような、己心の生命の外に価値を置くような、いき方を改めるべきである。そして、宇宙生命の神秘・人間生命の尊厳と無限の可能性を指し示す大哲学を、求めて指針とすべきであると思います。

 大聖人は、「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若(も)し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法(そほう)なり、…… 然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財(たから)を計へたれども半銭の得分もなきが如し」(383P) と戒められています。
 
 池田先生は、戸田先生の 『生命論』 について、次のように述べられています。
 戸田は、現代知識人の宗教に関する無知よりも、自己の生命に関する無知と無関心を衝(つ)いたのである。  (文庫・人間革命4巻・41P)
 人間性の喪失、疎外に、人びとが気づきはじめた時、焦点のぼやけた人間群像の背後に、突如として 「生命」 が、明晰な姿で現れようとしている。  (同書・62P)
 
 結局、私たち自身の中に、生命の本質はあるのである。してみれば、また人間の主体性を回復するためにも、この解明にこそ重点を置かなければならない。
 戸田城聖の 「生命論」 が、まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書であるということも、やがては人びとから肯定される時が来るにちがいない。
 ………
 人びとが生命の探求にあたって、迷路にはいって行き詰まった時、たち還るべき故郷としての 「生命論」 を知って、思わぬ幸せを噛みしめる時も来るにちがいない。また私は、それを待とう。  (同書・63P)

 人間の背後に生命が、いやでも鮮明な姿を現わした以上、広宣流布による人間社会の変革と共に、戸田城聖という実践的哲学者の 「生命論」 が、これからの新世紀の光源となることも、また自明の理ではないだろうか。  (同書・64P))