戸田先生の生命論 (3)(永遠の生命)

 「永遠の生命」 の章においては、「人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん」 と問いかけられ、この命題こそ、また仏法の根幹であるがゆえに、法華経の経文と御書の御文を引かれて述べられています。

 『妙法蓮華経如来寿量品』 にいわく、
 「然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫なり。譬えば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使(たとい)人あって、沫して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意(こころ)に於て云何(いかん)。是の諸の世界は、思惟し校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや不(いな)や。
 弥勒菩薩等、倶(とも)に仏に白(もう)して言(もう)さく。世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず。亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞、辟支仏、無漏智を以ても、思惟してその限数を知ること能(あた)わじ。我等阿惟超越致地(あゆいおっちじ)に住すれども、是の事(じ)の中に於いては、亦(また)達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。
 爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著(お)き、及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来(このかた)、復(また)此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧祇劫なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」

 右(上)の経文は、釈尊の、かず多くの経文中、もっともたいせつな部分であり、悟りの極底である。その大意をいうならば「お前たちは、みな、私がこの世で仏になったと思っているが、じつは自分が仏になったのは、いまから五百塵点劫という、かぞえることもできないほど昔に成仏して、常にこの娑婆世界にいて活動をしているのである」 という意味であり、自分の生命は、現世だけのものではなく、また悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。 

 また、寿量品の文を引かれて、「福徳の薄い心の濁った者は、生命は現世だけであると考えているが、真実の生命の実相は無始無終であると説かれているのである」 と述べられている。

 日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのに対して、大聖人は名字即の凡夫位において、本有の生命、常住の仏を説きいだされている。すなわち凡夫のわれわれのすがた自体が無始本有のすがたである。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと説かれているのである。

 そして次に、御書の要文をひかれて、「大聖人の直達正観・事行の一念三千こそ、もっとも生命の実体を、より本源的に説き明かされている」 と述べられている。(要文は一部分です、あしからず)

 『三世諸仏総勘文教相廃立』 にいわく、「釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、…… 在在・処処に八相作仏」云云。(568P)
 『当体義抄』 にいわく、「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す …… 妙覚果満の如来と成り給いしなり」(513P) 
 『十法界事』 にいわく、「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず …… 故に無始無終の義欠けて具足せず」云云。(421P) 
 『御義口伝下』 にいわく、「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、…… 唯凡夫の当体本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり」(752P)

 戸田先生は、大聖人の観心釈をもって、「永遠の生命」 について述べられている。
 生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることもあやまりである。われわれは、広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって、「妙」なる生命の実体把握を励んでいるのにほかならない。

 あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。

 地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件がそなわれば、アミーバは発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。

 ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、さかえているとするも、なんの不思議はないのである。また、いずれかの星に、まさに人間にならんとする動物がいることも考えられ、天文学者の説によれば、金星が隠花植物の時代であるとの説を聞いたことがあるが、私は天文学者ではないから、これを実証することはできないにしても、さもありなんと信ずるものである。あるいは、蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙とともに本有常住の存在であるからである。

 『法華経寿量品』 の 「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」 の文は、釈尊がご自身の生命に即して 「永遠の生命」 を説いたのである。これを 「発迹顕本」 といいます。
 すなわち、釈尊がインドに誕生して、十九歳で出家し、三十歳で成道したというのは、衆生を教化するために迹を垂れたものであり(始成正覚)、その本地は五百塵点劫以来、三世常住の仏(久遠実成)であると明かした。
 それ以来、常に此の娑婆世界に在って、無数の衆生を説法教化してきたのである。このように仏の寿命は無量であり、常住にして不滅であると説いたのである。
 
 池田先生は、『法華経方便品・寿量品講義』 のなかで、次のように述べられています。
 戸田先生は言われた。「日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終りもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです。
 大宇宙ですから、始めもなければ終りもないのです。このままの地球だけなら始めも終りもあるのです」 と。
 私たちの生命は、創造神のような “作者” によって作られた “作品” ではない。宇宙とともに実在し、宇宙とともに無限に続きゆくものです。あえていえば、生命自体が作者でもあり、作品でもあるのです。  (小冊子・2寿量品編・87P)