〈鎌倉時代をつまみ読みっ!〉第2回 貨幣でお買い物革命⁉2024年6月14日

 今回のテーマは「貨幣でお買い物革命⁉」。物々交換の時代を経て、鎌倉時代に急速に広がった貨幣の流通。社会や人々の暮らしは、どのように変化していったのでしょうか。ネコたま殿も興味津々のようですよ。それでは早速、かいつまんでいきましょう。いざ、鎌倉時代!

「一度使うと、もうやみつき!」 お金ってこんなに便利なの?

 ここ掘れ、ニャンニャン!――ネコたま殿ったら、鎌倉を歩くだけで、そわそわしています。
 市街地の遺跡では、多くの銭(貨幣)が発掘されています。足もとに“埋蔵金”と聞けば、ネコもしゃくしも色めきだつのは、無理もないかもしれませんね。
 鎌倉に限らず、各地の鎌倉時代の遺跡から出土する銭の多くは渡来銭。つまり、海外から来たお金です。
 そう、鎌倉時代に使われていた貨幣は、海の向こうの宋(中国)から船に乗ってやって来た、宋銭だったのです――。
 日本では、国家が貨幣を発行していた時期もありましたが、定着せず、10世紀半ばには貨幣の鋳造は打ち切りに。以来、それ以前の物々交換に後戻りしたのです。
 鎌倉時代に入ると、交通の要地では「定期市」が開かれ、各地の名産品などが、にぎやかに取引されるようになりました〈注1〉。
 この頃、市の発展を支えたのが貨幣の存在です。米や絹、布などを使った物々交換とは違い、貨幣を使えば、運びやすく、腐ることもなく、「1枚が1文」と明確で分かりやすい。まさに、お買い物に“革命”が起きたのです。
 「すてきな織物!」「このお魚、おいしそう!」なんて、ショッピングを楽しむ人がいたかもしれませんね。
 こうして、気軽に、手軽に使用できる宋銭は、瞬く間に人々に広がっていきました。
 しかし、宋銭の流通に対して、「そうはさせん!」と朝廷や幕府は使用を何度も禁止します。貨幣の役割を果たしていた米や絹などの価値が下がることを心配していたとも考えられています。
 それでも人々の声や、変化しゆく時代の波は、もう止められません。嘉禄2年(1226年)、ついに幕府が正式に宋銭の利用を認めたのです。
 土地の売買に限れば、鎌倉時代の初期には、60%が米による決済だったのに対し、末期には84%が貨幣での決済へと推移していきました。
 鎌倉時代に始まった、新たな貨幣経済。それは、国家による政策ではなく、生活現場における人々の実感や声から幕が開いたのです。
 「物々交換はもう限界だ」――そうブツブツつぶやいていた人々も、きっと喜んだことでしょう。

銭は100文ごとに、ひもでくくられて使用されていた

銭は100文ごとに、ひもでくくられて使用されていた

「為替の登場で、もっと楽ちん!」 約束交わせばオッケーです

 鎌倉時代の貨幣は、現代でいうと、どれくらいの価値があったのでしょうか。
 当時、1000文を「1貫」と数えていました〈注2〉。
 1貫は、米の値段や人件費などから試算した研究などを踏まえると、大ざっぱに10万円から20万円と考えておけばよいだろう――そう、東京大学史料編纂所の本郷恵子教授は記しています。
 その上で、当時は貧富の差も大きかったことから、現代の同額とは、比較にならないほどの重みがあったことを指摘しています。
 “重み”があったのは、貨幣の価値だけではありません。実際に、ずしりと“重かった”のです。
 鎌倉時代に使用されていた貨幣は1文銭のみ。1枚がおよそ3・5グラムほどと考えられているので、1貫では約3・5キロにもなります。
 高額の取引をする商人たちは、「重すぎて、一貫文も持ち歩くわけには、いかんもん!」と、悲鳴を上げていたかもしれません。
 いくら、物々交換と比べて便利になったとはいえ、大量の貨幣を持ち歩くのは、とんだ重労働です。輸送しようにも、さらに費用がかかってしまいます。
 そこで、鎌倉時代に登場したのが、手形を発行し、貨幣に代用させる「為替」です。
 「しっかり約束を交わせば、為替での支払いオッケーです!」――為替によって、遠隔地との取引も簡単になり、さらに経済が活性化していきました。
 互いの信用をもとに、為替などを使う経済を「信用経済」と呼びます。
 貨幣を使った貨幣経済から、さらに発展した信用経済へ。人々の間に、信頼に基づくネットワークが形成されていったのです。

 〈注1〉農業の発達で原料作物の収穫が増加し、手工業品の大量生産が可能になった。このことが、商業や定期市の活性化につながった。
 〈注2〉100文で「1さし」として数え、10さしで1貫。実際は当時の慣習で、銭96~97枚で1さしとみなしていた。
 【参考文献】河野眞知郎著『中世都市鎌倉』(講談社)、深尾京司他編『岩波講座 日本経済の歴史』第1巻(岩波書店)、中西聡編『日本経済の歴史』(名古屋大学出版会)、大石学監修『一冊でわかる鎌倉時代』(河出書房新社)、佐藤信他編『詳説日本史研究 改訂版』(山川出版社)、本郷恵子著『全集 日本の歴史』第6巻(小学館)、同『買い物の日本史』(KADOKAWA)

その時、日蓮大聖人は――

 「何よりも重宝な金銭を受け取りましたが、山海を尋ねても、日蓮の身には時に当たって大切なものであります」〈※1〉――日蓮大聖人は、貨幣を供養した門下に万感の謝意をつづられました。
 御書では金銭について、「あし」「鵝目」「青鳧」「鳥目」「鵝眼」など、いろんな別称が用いられています。また、「かえぜに(替銭)」〈※2〉との記述も見られます。為替の仕組みもご存じだったのでしょう。
 「銭というものは使い方によって変わるものです」〈※3〉とも仰せです。急速に広がる貨幣の利便性や価値を実感されていたことが伝わってきます。
 弘安3年(1280年)、門下から衣類が供養された際には「小袖は七貫」〈※4〉等と記されています。当時、大聖人は身延の地にありました。それでも、世間と遊離した生活を送るのではなく、刻々と変動する物価まで細かく把握されていたことが伝わってきます。
 激動する社会にあって、自らの生活も大変な中、貴重な金銭を供養する門下たち。その労苦と真心に寄り添う、大聖人の慈愛を感じずにはいられません。
 
 〈※1〉御書新版1632ページ・御書全集1124ページ(通解)
 〈※2〉御書新版1636ページ・御書全集1225ページ
 〈※3〉御書新版1699ページ・御書全集1227ページ(通解)
 〈※4〉御書新版1504ページ・御書全集1103ページ