戸田先生の生命論 (1)(生命の不可思議)

 「生命論」 といえば、戸田城聖先生の 「生命論」 を抜きにしては語れないと思う。それは戸田先生が、あの戦時中の牢獄の劣悪な環境のなかで、激烈な思索と唱題のすえに、法華経の極意を感得なされた先生であるからです。

 戸田先生の 「生命論」 は、雑誌・大白蓮華の創刊号(昭和24年7月) に掲載された論文である。戦後の創価学会の再建と会社経営という超多忙の中、原稿の締め切りに追われながら、短期間で原稿用紙わずか三十枚あまりの、解かり易い論調で書かれたものである。
 しかし、短期間といっても決して雑なものではなく、その発想の場というものは、あの獄中での生命を懸けた深い思索と体験に裏づけられているのである。その中には、幾多の新学説と原理・方程式が含まれているのである。

 まず、はじめの 「生命の不可思議」 の章では、発想の場について述べられています。

 冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる 「生命の本質」 につきあたったのである。「生命とは何か」 「この世だけの存在であるのか」 「それとも永久につづくのか」 これこそ、永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。

 不潔な拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと遊びにはい出してきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、かれらは一心に手足をもがいている。まず、一匹をつぶしたが、ほかの一匹は、そんなことにとんちゃくなく動いている。つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか。

 また、さくらの木がある。あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の生命とは、別のものであるか、同じものであるのだろうか。生命とは、ますます不可解のものである。
 ………
 そこで、私は、ひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして、法華経の不思議な句に出会い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱え抜いていた。唱題の数が二百万べんになんなんとするときに、私は非常に不思議なことにつきあたり、いまだかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、一人独房の中に立って、三世十方の仏・菩薩、いっさいの衆生にむかって、かく、さけんだのである。
 遅るること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり。
 かかる体験から、私は、いま、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである。

 先生は、ひたすらに、法華経と御書を拝読したと述べられています。昭和19年元旦を期して、毎日 『日蓮宗聖典』 を手にし、そのなかの法華経を読むことにした。
 この法華経を読むきっかけになったのに、不思議なエピソードがあります。