しゃくそん

 ゆうきゅうなる大河も、げんりゅういってきから始まる――しゃくそんから法華経、日蓮大聖人、そして創価学会へといたる仏法の人間主義のけい。世界に広がるみんしゅう仏法のげんりゅうをたどりたい。ここでは、小説『新・人間革命』第3巻「ぶっ」の章を中心に学びながら、釈尊のせきを追います。

仏教のそうしゃ

しゃ族の国の王子として

 中国や日本で用いられてきた、インドのしょうである「がっ」。
 日蓮大聖人は「かんぎょうはちまんしょう」で、「月は西より東にかえり。月氏の仏法の東へながるべきそうなり。日は東よりず。日本の仏法の月氏へかえるべきずいそうなり」(新747・全588)とおおせになり、まっぽうほんぶつのお立場から、日蓮仏法が西せいかんして、東洋、そして世界へ広宣流布しゆくかくしんを示された。
 1960年5月3日に第3代会長にしゅうにんした池田先生は、「東洋広布」「仏法西還」の実現を熱願した恩師・戸田先生の不二の弟子として、翌61年1月、アジアへの平和旅に出発する。
 同月31日、インドの地に初めてつ。そして、2月4日、ブッダガヤをおとずれた先生は、夕日にまりゆくそうごんな情景をながめながら、この地でじょうどうし、の教えで人類を照らしたせいじゃ――しゃくそんしょうがいに思いをはせた。
         ◇
 仏教のそうしゃである釈尊がかつやくした年代は、はるか紀元前にまでさかのぼるため、現時点の研究だんかいでは、歴史的に正確にたどることはできていない。にゅうめつ年代についても、大聖人が御書で用いられている『しゅうしょ』の紀元前949年説や、『しゅんじゅう』の紀元前609年説など古くからしょせつがあり、近代に入ると紀元前4、5世紀とする説も有力となってきているが、特定はされていない。ただし、いずれの伝承にしても、釈尊が80歳で入滅したという点はいっしている。
 釈尊は、現在のインド北部とネパール南部が接する地域にあったしゃ(シャーキャ)族の小さな国で、王子として生を受けた。
 せいは「ゴータマ」(かんやくでは「どん」)で、長じてさとりを得てからは、「目覚めた人」という意味の「ブッダ」を用いて「ゴータマ・ブッダ」としょうされ、それが中国で「ぶっ」「仏」と漢訳されていくことになる。また、釈迦族出身の聖者()という意味で、「シャーキャムニ」(釈迦牟尼)とも呼ばれ、その訳語が「釈尊」となった。
 釈尊の父はスッドーダナ(じょうぼんおう)で、母はおうのマーヤー()である。ようめいは「シッダッタ」(しったい)とばれたと伝わる。
 王国の首都カピラヴァットゥ(城)から母が里帰りする途中で産気づき、ルンビニー(らん)という村で生まれた。釈尊のうぶに使われたと伝えられるプスカリニ池は、今も残る。
 釈尊は生後ほどなくして母を亡くしたため、のマハーパジャーパティー(じゃだい)によって養育された。
 ルンビニーの地には、紀元前249年にマウリヤ朝のアショーカ(阿育)王が建立した、釈尊せいたんの地を示す石柱がある。
 13世紀初頭にかいされた石柱が、再び、考古学的調査によって発見されたのは1896年のことである。

(小説『新・人間革命』の挿絵から。内田健一郎画)

(小説『新・人間革命』の挿絵から。内田健一郎画)

もんゆうかん

人間のこんげんてきのうの解決へ

 釈迦族は小国であっても、自らを「太陽のまつえい」と名乗るほこたかき一族であった。その国の王子として育った釈尊は、裕福であんのんな生活を送り、父王からは文武両道にわたる十分な教育も受けていたという。
 しかし、感受性の豊かな青年・釈尊の心は晴れることがなく、仏典によれば、人生に対するなやみをかかえ続けていたようだ。あるいはようしょうに母をくしたことも、彼をないせいてきてつがく的にさせる要因だったのかもしれない。
 小説『新・人間革命』「ぶっ」の章では、若き釈尊のさくをこう描く。
 「“人間は、いかに若く、健康であっても、やがて老い、病み、死んでいく。これは、だれまぬかれることのできない定めだ”
 彼(=釈尊)は、老・病・死を、自身のなかに見いだし、ぎょうしていた。
 “しかし、世間の人は、他人の老・病・死を見て、いとい、あざけっている。なぜなのだろう。おろかなことだ。それは、決して、正しい人生の態度ではない”」
 やがて釈尊は、老、病、死の問題の解決なくしては、人生の真の幸福はないと考えるようになる。
 ぎとして王になり、武力主義のどうの世界で生きるか。出家してせいじゃとなり、精神の大道をひらくか――。
 釈尊の出家にまつわる話としてよく知られるのが、仏伝で示される「もんゆうかん」のエピソードだ。
 城から外出しようとした釈尊が、東門から出ると老人の姿すがたを見て、南門では病人を、西門では死人を見た。ところが北門では出家した者が歩いているのを見て、その姿に心を打たれ、釈尊自らも出家を決意したというのである。
 後代に追加されたそうといわれるが、この話がしょうちょうするように、まさに“しょうろうびょう”という人間のこんげんのうの解決を求めるところに、やがて世界宗教となるだいな仏教思想の出発点があったといえよう。
 父王スッドーダナは、出家を願う釈尊を思いとどまらせようと、りんごくからむかえたヤソーダラー(しゅ)を釈尊のきさきとし、二人には一子・ラーフラ()も生まれる。しかし、そうした何不自由ない日々にも、青年・釈尊の心が満たされることはなかった。
 人間とは何か。人生とは何か。生きるとは、幸福とは――。真理のたんきゅうかつぼうする釈尊は、ついに出家の意志を父王に打ち明ける。
 おどろいきどおった父王は、ほんさせようとかくさくしたり、城から出ること自体を禁じたりした。
 しかし釈尊は、げんじゅうけいかいあみをかいくぐり、夜半に、一人のじゅうしゃともなって愛馬に乗り、王都を後にした。この時、19歳とも、29歳ともいわれる。
 馬上で満天の星をあおぐ青年のそのひとみは、どのようなぜんえいじていたのであろうか。(次回に続く)

[VIEW POINT] 真のこうよう

 日蓮大聖人の門下である池上兄弟は、念仏の強信者だった父親から、法華経のしんこうてるようにせまられます。ほうけんてきな鎌倉時代。“親にしたがうことが、おやこうこうなのでは”と、兄弟はのうしたにちがいありません。
 大聖人は、兄弟にてたお手紙(「きょうだいしょう」)の中で、釈尊が父・じょうぼんおうの意にそむいて出家した話を用いられ、「一切はおやにしたがうべきにてこそそうらえども、仏になる道は随わぬがこうようもとにてそうろうか」(新1476・全1085)とおおせになりました。
 「こうよう」か「しんこう」か、しゃたくいつではない。自らがごうじょうに信心をつらぬき、父母をも最高の幸福である成仏へと導くことこそ、真の孝養なのである――。兄弟は、求道心を一段と燃やしたことでしょう。
 池田先生は教えています。
 「信心をしている一人が、どこまでも家族を愛し、大切にしていくことです。家族に希望の光をおくっていくこうげんへと、自分自身をみがき『人間革命』させていくことです。自身が『一家の太陽』となることが、一家和楽を築いていくじきどうにほかならないのです」
 信心で自らのきょうがいを開く。それが、父母や、えんする人々を幸福に導く一切の出発点です。