戸田城聖先生 11 | 励まし慈悲感動通信

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戸田先生の悟り (11)(創価学会仏)

 御本尊を信じきることが 「末法の悟り」 であると述べました。 そうしますと、御本尊を信じている創価学会員の方々は、もう既に “悟っている” わけであります。
 しかし、このことについて、その殆んどの方は知らないか、またそのような意識はもっていないと思います。 それは、現実の煩悩にまみれた自身が、とうてい 「仏」 であるとは思えないからである。
 しかしながら、これは権教・権宗、特に念仏宗の考え方なのであります。 念仏宗はこの世の我が身・我が国土を、穢れたものとして忌み嫌うのである。 そして、わが身土から遠く離れたところに、理想の仏と国土を求める、はかない教えなのである。
 法華経はしからず、「仏とは生命なり」 とありますように、この世の我が生命・我が国土を離れた 「仏」 はあり得ないと説いているのである。  

 日蓮大聖人は、「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(404P) 
 「但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり」(1382P) と仰せです。
 “法華経の心” を知らなくてはならないと仰せです。 この点については、また後日、考えてみたいと思います。
 
 それでは、法華経に説かれている 「虚空会の儀式」 について、自身の現実の修行の場では、どのように考えられるのか。 池田先生は次のように述べられています。

 日蓮大聖人は、釈迦・多宝のもとへ十方の仏菩薩が集った虚空会の儀式を 「我等衆生を仏になさんとの御談合なり」(1360P) と仰せである。
 全員を 「一生成仏」 の直道へ
 一人ももれなく 「幸福勝利」 を
 この仏意に完璧に合致した荘厳な妙法流布の会座こそ、座談会を中心とする創価の会合なのである。 ゆえに、そこには、参加者の仏性を引き出さずにはおかない、鮮烈な 「人間革命」 の “磁力” が生じてくるのだ。 (大白巻頭言・2012-1月)

 “妙法流布の会座こそ、座談会を中心とする創価の会合なのである” と仰せです。 学会活動の場における、本部幹部会や各種の会合は、まさに 「霊山一会儼然未散」 の姿そのものなのであります。
 
 二処三会における、霊鷲山は 「現実の世界」 であり、虚空会は 「永遠の生命(悟り)の世界」 であります。 「現実の世界」 の前霊鷲山会から 「永遠の生命の世界」 の虚空会へ、そこで勤行唱題して得た仏界の生命力に基づいて、そして再び 「現実の世界」 の後霊鷲山会へ戻っていくという、この往復作業とも言うべき唱題と学会活動の中に、折伏も人間革命(成仏)も広宣流布も、その他すべてのものが含まれているのである。

 池田先生は、戸田先生の七十五万世帯の誓願が成就されたことを喜ばれ、先生のお考えを偲ばれて、次のように述べられています。

 彼の脳裏に、あの獄中で身で拝した、「御義口伝」 の 「霊山一会儼然未散」 の御文が浮かんだ。
 ―― そうだ、霊山の一会は儼然として未だ散らぬがゆえに、この世に私たちは集い来たのだ。 私は、あの法華経の会座に、たしかにいたことを身をもって知った。 私だけでなく、皆、あの座にいた久遠の兄弟、姉妹であり、同志なのだ。 生死を超えて、あの久遠の儀式は永遠につづいているのだ ……。 それゆえに、大聖人の御生まれになった日本という地球の一角に、創価学会が生まれ、七十五万世帯を成し遂げることができたのだ。 そこに、私の生涯の使命があったことは間違いあるまい。

 私は、学会を組織化し、広宣流布を敢行した。 そこに、大きな広がりが生まれ、「地涌の義」 を現実のうえにあらわす、ひとつの方程式を示すことができたといえる。 広布の方程式を確実なものとすることができたからには、あとは臨機応変な応用、展開の時代に入っていこう。 そして、この広布の潮は、日本から世界へと広がり、五大陸の岸辺を洗う日も、そう遠くはないはずである。

 日蓮大聖人は、御本尊を御図顕あそばされ、末法の衆生のために、御本仏の大生命をとどめ置かれた。 まさに 「我常在此。娑婆世界。説法教化」(寿量品) の経文のごとく、仏が常に此の娑婆世界にあって説法教化されている御姿である。 創価学会は、その大法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏の御使いとして出現した。 そして、大聖人の御精神のままに、苦悩にあえぐ人びとを救い、菩薩道を行じてきた唯一の団体である。 それは未来永遠につづくであろう。 すると、学会の存在もまた、「我常在此。娑婆世界。説法教化」(寿量品) の姿ではないか。 してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう ――。
 戸田の胸に、熱い感動が込み上げ、あふれでる感涙が枕を濡らした。  (文庫人間革命第12巻・235P)

 戸田先生は、“学会の存在は、それ自体、「創価学会仏」 ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう” と仰せです。
 この 「創価学会仏」 とは、取りも直さず “戸田先生の悟り” であり、我ら創価学会員の確信であります。 何と有り難きことか、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集548P) と仰せられるように、我が身が 「仏身」 と顕われることができるのであります。
 『御義口伝』 の 「五百品」 のところに 「貧なる人 此の珠を見て 其の心大いに歓喜す」 の経文を文底より解釈して、
 「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く 所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788P) とあります。

 池田先生は、「広宣流布に生き抜くことは、わが色心に妙法の力を漲(みなぎ)らせゆく仏事だ。 「歓喜の中の大歓喜」 が湧きあがらないわけがない」 (大白巻頭言・2010-2月) と御指導されています。