〈教学〉6月度座談会拝読御書2024年6月2日

  • 殿どのへんじょうぶつようじんしょう

拝読御文

 このほうもんにちれんもうゆえに、ちゅうげんみみさからうどうなるがゆえに、ざいせられ、いのちにもおよびしなり。しかれども、いまだりずそうろうきょうたねのごとく、ほとけのごとく、しゅじょうのごとくなり。(御書新版1435ページ12行目~13行目、御書全集1056ページ13行目~15行目)

〈池田先生の指針から〉 ゆうみょうしょうじんじょうぶつようてい

 「いまだこりずそうろう」――このきんげんはいするたびに、むねが熱くなります。日蓮大聖人のだいだいゆうみょうしんぎょうけつしたお言葉でもありましょう。
 私たちがにちどくじゅするきょう方便品には、「ゆうみょうしょうじん」とあります。これは、仏自身が、なぜ仏にれたのかを明かした理由の一つです。
 こんなんにもゆうかんちょうせんし、不可能をも可能にとくすこと。それが「勇猛」です。
 「精進」について、みょうらくだいは、「ざつゆえしょうけんの故にしん」と記しています。まじえず、ただひとすじに進むのが「精進」です。仏自身が、いくつもの過去世で、「勇猛精進」してじょうぶつしたとせんげんされています。
 そして、真実の仏の慈悲の行動は、寿じゅりょうほんに「ぞうざんぱい」とあるように、おん以来、しゅんたゆむことはないというのです。
 大聖人は、あらゆるだいなんを受けながらも、勇猛精進、未曾暫廃のとうくつだいとうそうつらぬかれたしょうがいを示されました。ただただみんしゅうあんのんと幸福のためです。これほどありがたい、だいだいのお姿すがたはありません。(中略)
 戸田先生は、豊島公会堂で行われた「いっぱん講義」で、ほんしょう(=殿どのへん)を講義されました。
 はいどくもんしょで、先生は熱をめて、「これだよ。“いまだこりず候”だよ」と参加者にけました。みな、思わず身を乗り出して次の言葉を待ちました。
 先生は、ちからづよく、こう語られたのです。
 「私どもは、もったいなくも日蓮大聖人のぶっである。さつである。なれば、わが創価学会の精神もここにある。しょう私も広宣流布のためには、“いまだこりず候”である。大聖人のゆいめいたしゆくのだから、大難の連続であることは、当然、かくしなければならない! 勇気とにんたいをもつのだ」
 その言葉は、今もせんれつひびいてはなれません。(2021年10月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)

「いまだこりず」の心で語り

キーワード① 負けじだましいこそ仏法のしんずい

 「山に山をかさね、波に波をたたみ、なんに難を加え、に非をますべし」(新72・全202)――けんちょう5年(1253年)4月28日のりっしゅうせんげん以来、日蓮大聖人のしょうがいだいなんぐ大難でした。
 なぜ大聖人にはくがいきそい起こったのか。それは、自然災害やきんえきびょうなどの苦しみにあえぐしょみんすくうため、人々を不幸におとしいれるあやまった思想に対して、正義のげんろんてんかいされたからです。
 「ちゅうげん耳にさからう」とのいっせつの通り、おんしつしたばくけんりょくしゃしょしゅうそうらがけったくし、はげしいだんあつを加えました。しかし、大聖人は「いまだこりずそうろう」(新1435・全1056)、「日蓮、一度もしりぞく心なし」(新1635・全1224)とどうだにすることなく、一切のしょうを打ち返していかれたのです。
 「たつくちほうなん」や二度のざいをはじめ、命におよいくを、大聖人はかんぜんと勝ちえられました。このすうこうとうそうは、やむにやまれぬみんしゅうきゅうさいだいの表れとはいせます。
 池田先生はこのもんについて、「『いまだこりず候』――ここに、日蓮仏法のしんずいけじだましいがある。正義のたましいは絶対にこりない。おうほうが『こりた』とをあげるまで、めて攻めて攻めくのだ」とつづっています。
 へいそくかんまんえんする現代社会にあって、友の心に「生命そんげん」「万人そんけい」のてつがくを広げる仏法対話の価値は、いちだんと高まっています。正義と真実を語り抜く“勇気”をそなえた一人によって、人間主義の新時代は開かれるのです。

キーワード② せいがんを共有する師弟のきずな

 「このほうもん」とは、仏の真意であるきょうもとづいて、“根本とすべきしょうあやまってはならない”との意味です。
 ほんしょうでは、法華経を説いた釈尊しゃくそんは、いっさいしゅじょうしたがうべき“こんげんの師”であることが述べられています。しかし、大聖人のざい当時、人々は釈尊をないがしろにして、ぶつだいにちにょらいしんぽうしていました。
 ちがった法や仏法の道理を知らない師に従ってしまえば、成仏の道がざされてしまいます。ゆえに、大聖人は「ほんじゅうの師」をたがえてはならないと、諸宗のほうぼうを厳しくめられたのです。
 拝読御文の直前で、「いたるところのしょぶつに、常に師とともにしょうず」とのきょうもんが引かれています。法華経に説かれている“三世にわたる師弟のえにし”は、仏法の師と弟子がみょうほうつうせいがんを共有し、現実社会の人々を救い続けるきずなむすばれていることを示しているのです。
 それでは、師の仰せ通りのじっせんとは、具体的に何を指すのでしょうか。本抄では、衆生の心に“成仏の種”を植え、ぶっしょうます下種の対話であると示されてます。
 大聖人の仰せのままに、自他共の幸福の実現へ、ぶつえんの拡大にちからくしてきたのが、創価三代の師弟です。学会の同志は、師と同じ時代に生まれ合わせたほこりも高く、広宣流布に走りき、宿しゅくめいてんかんげてきました。
 師弟の大道を歩み抜く限り、いかなるなんえられる――この確信をむねに、友の心に希望をともす語らいにいどんでいきましょう。