戸田城聖先生 9 | 励まし慈悲感動通信

励まし慈悲感動通信

日蓮仏法を、より深く学習することで一生成仏を達成するために、日夜、お題目を唱え一人一人に寄り添い真摯に向き合い励まします。sgds、ためなる情報、感動した事を提供します。趣味はレザークラフト、スポーツは、野球・ラグビー・相撲が大好きです。

戸田先生の悟り (9)(霊山一会厳然未散)

 戸田先生は、「法華経の霊鷲山会」 の儀式に参列している御自身を発見されたと仰せられています。 この霊鷲山の会座について、『続 私の仏教観』 の中に次のように述べられています。

 野崎 慧思が 「法華三昧」 を開悟したというのも、そのように法華経に肉薄していった結果、文底に秘沈された久遠の本種を、忽然と覚知したということですね。

 池田 簡単に言ってしまえば、要するに久遠を思い出したということです。 私の恩師戸田先生も、生前よく 「久遠を思い出した」 と言われていた。 それは、戸田先生の小説 「人間革命」 にも描写されているように、獄中において唱題を重ね、白文の法華経を読み進めるにつれ、ある日突然に、先生は霊山における法華経の会座を思い出された。 このことは、あるいは不思議なことのように思われるかもしれないが、わが生命に 「仏」 を覚知したことと、まさに一つのものなのです。 
 
 松本 後に大蘇山を訪れた智顗(天台)が、まず最初に慧思(南岳)から言われたことは 「昔日、霊山に同じく法華を聞く、宿縁の追う所にして今、復た来たる」 ということですね。これは南岳が、新来の弟子智顗を尊敬した言葉であるとか、激励の意味であるとか、親愛の情をこめた発言であったとか、さまざまに解釈されていますが、やはり慧思も、そして大蘇開悟以後の智顗も、生命の奧底から霊山の法華聴者であったことを確信した言葉ですね。

 池田 そう思います。 なぜなら、後に天台も 「霊山の一会、厳然として未だ散らず」 という有名な言葉を発しているからです。
 ここで一言、誤解のないために言っておけば、末法当今の菩薩の仏道修行としては、なにも南岳の 「法華三昧」 や、天台の 「摩訶止観」 に説かれる修行を必要とするものではない、ということです。
 
 野崎 それは、強いて霊山の儀式を思い出すまでもない、という意味に通じますね。

 池田 そうです。 末法今時においては、日蓮大聖人が 「霊山一会厳然未散」 の儀式を借りて、その内証の境地を御本尊として図顕されているからです。 私たちは、その御本尊を受持することによって、受持即観心で 「直達正観」 つまり直ちに仏道を成ずることができ、そのまま霊山の会座につながっていることになるのです。  (續 私の仏教観・141P)

 南岳は、はるばる訪ねてきた天台に対して、“霊山に同じく法華を聞く” と言い、ともに霊山の法華聴者であったことを確認し、喜びあっています。
 池田先生は、“先生は霊山における法華経の会座を思い出された。 このことは、わが生命に 「仏」 を覚知したことと、まさに一つのものなのです” と述べられています。
 
 「仏」 を覚知したこととは、また 「永遠の生命」 を覚知し、久遠を思い出したことであり、まさに 「成仏」 されたということであります。
 したがって法華経の悟りとは、自身が 「虚空会の儀式」 に参加していることを、実感する・体得することに尽きると思います。 それはそのまま、自身の生命のなかに 「虚空会の儀式」 はある、ということと同じであるわけです。

 大聖人は、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244P) 
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり 虚空会に住するなり」(740P)
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するを皆在虚空と説くなり 生死即涅槃と被摂(ひしょう)するなり、大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり 虚空とは寂光土なり」(742P) と仰せです。
 
 名誉会長 「仏とは何か」 を追求し抜いて、仏とはほかならぬ自分のことであり、宇宙の大生命であり、それらは一体であるとわかった。
 “足下を掘れ、そこに泉あり” という言葉は有名だが、自身の根源を掘り下げていく時、そこに万人に共通する生命の基盤が現れてきた。 それが永遠の宇宙生命です。 戸田先生は、まさに自身の根源を悟られるともに、“あらゆる人が、じつは根本において地涌の菩薩である” という人類共通の基盤を悟られたのです。 この “生命の故郷(ふるさと)” を知ったのが、学会員です。  (法華経の智慧第3巻・328P)

 池田先生は、“あらゆる人が、じつは根本において地涌の菩薩である” という人類共通の基盤、“生命の故郷” を知ったのが、学会員です、と述べられています。

 学会草創期の頃、鶴丸のバッジ(会員徽章) を見かけたとき、それが車中であっても、初対面の人であっても、“学会員だ・ 同信の朋だ” と、旧知のように懐かしく感じたものである。
 この想いを全民衆に広げていけば、それがそのまま、世界平和への道に通ずるものであると思います。 したがって、現今の混沌たる世情を思うとき、地涌の菩薩の自覚にたつならば、世界の広宣流布は絶対にやり遂げねばならない使命である。