〈大慈悲の心音 門下への便り〉 南条時光②
良き師匠、良き先輩と巡り合うかどうかで、人生は大きく変化します。若き南条時光には、正しい仏道に導いてくれる“善の存在”がいました。
文永12年(1275年)の正月、日蓮大聖人は時光に送られたお手紙の中で、日興上人を南条家に伺わせたいと仰せになっています(新1841・全1510、趣意)。この正月、日興上人と時光の出会いがあり、強い心の絆が結ばれたと思われます。時に日興上人は30歳、時光は17歳でした。
時光は、日興上人の指導を受けつつ、正しい信心の姿勢を学び、親類などを折伏していきました。“兄弟子”のように見守り続ける日興上人の存在が、いかに心強かったか、想像にかたくありません。
その後も時光は、折あるごとに届く大聖人のお手紙に奮起しながら、不退の実践を貫きます。建治4年(1278年)2月、大聖人は20歳の時光を、次のようにたたえられました。
「法華経を信ずる人に、火のように信ずる人もいて、また水の流れるように信ずる人もいる」「あなたは、いかなる時も常に退することなく、日蓮を訪ねられるのであるから、水の流れるように信じていらっしゃるのであろう」(新1871、1872・全1544、通解)
時光は、強盛な信心を根本に、若き広布の指導者として成長を遂げていきます。
報恩の誓いを前進の原動力に
御文
法華経を持つ人は、父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思わねども、この経の力にて報ずるなり。(上野殿御消息〈四徳四恩の事〉、新1852・全1528)
通解
法華経を持つ人は、父と母の恩を報じているのである。自分の心には、恩を報じているとは思わなくても、この経の力によって報じているのである。
◇ ◇ ◇
時光は幼い頃に父を亡くし、家督を継ぎました。若くして社会の厳しさに直面する中で、苦労を重ねて懸命に一家を支える母への恩、そして、生前の父の存在の大きさを、身に染みて感じていたでしょう。時光は、父母への恩返しを誓っていたに違いありません。
本抄で大聖人は、多感な10代の時光の心を、限りない真心で包みます。
諸経典の中で唯一、女人成仏を説き切っている法華経こそが、母の恩に報いることを可能にする。ゆえに、法華経を持つことで、父も含めた親の恩に報いることができる――。
“純粋な法華経への信仰が親孝行、そして、あらゆる人々への報恩につながる”との大聖人の万感の激励は、時光にとって、どれほどの希望の光になったことでしょうか。
加えて、大聖人は具体的な親孝行の実践例も示されています。「親に良いものを与えようと思い、何もできない時には、せめて日に2、3度は親に向かって笑顔を見せるようにしなさい」(新1850・全1527、通解)
仏法は、父母という一番身近で大切な人への振る舞いを通して、いかに人間として成長していくかを教えています。報恩の誓いを前進の原動力に変えていく――これこそ、大聖人が時光に伝授した“勝利の人間学”なのです。
弟子の真心が広布の団結を築く
御文
いものかしら、河のり、またわさび、一々、人々の御志承り候いぬ。鳥のかいごをやしない、牛の子を牛のねぶるがごとし。(南条殿御返事〈諸人供養の事〉、新1855・全1530)
通解
芋の頭、河海苔、それに山葵といった品々をお送りくださり、人々の厚いお志、確かに承りました。あなた方の御供養は、ちょうど親鳥が卵を温め、親牛が子牛をなめるようなものである。
◇ ◇ ◇
若き時光は、橘三郎、太郎大夫という同志と共に、身延の大聖人に数々の御供養を届けています。大聖人はお手紙の冒頭で、一つ一つの品を挙げて、三人への感謝を示されています。
大聖人御自身を「卵」「子牛」、時光らを「親鳥」「親牛」にそれぞれ当てはめられ、門下の真心をたたえられました。自分たちを、“親”になぞらえる大聖人のお心に、時光らは感動を禁じ得なかったことでしょう。
また本抄の文末で大聖人は、「橘三郎殿、太郎大夫殿にも、この一紙で申し上げることとなり恐れ入ります。返す返す伯耆殿(日興上人)から読んで聞かせていただきたい」(新1855・全1530、通解)と、こまやかな配慮をされています。
日興上人を中心に前進する弟子たちの尊い志に、大聖人は誠意で応えられました。“師匠を支えよう”との弟子の真心が、広宣流布の団結を一段と強くしていったのです。