生命そんげんの思想を社会へ2024年5月25日

カリフォルニア大学ロサンゼルス校で講演を終えた池田先生のもとへ、学生たちが集まり握手を求める。聴講した学生から「最後まで真剣にメモをとるなど、これを聞きのがしたら大変だという意識がみんなにあった」「これは自分の生涯をかけて勉強するに値する“人間の哲学”だと思いました」と(1974年4月)

カリフォルニア大学ロサンゼルス校で講演を終えた池田先生のもとへ、学生たちが集まり握手を求める。聴講した学生から「最後まで真剣にメモをとるなど、これを聞きのがしたら大変だという意識がみんなにあった」「これは自分の生涯をかけて勉強するに値する“人間の哲学”だと思いました」と(1974年4月)

 世界192カ国・地域で、創価学会員が対話を通じて広げる「生命そんげん」のちょう
 その重要なげんりゅうは、およそ半世紀前(1974年)、池田大作先生の一連の行動にさかのぼる。
  
 当時の社会に広がっていた「生命けい」のふうちょうに対して、先生はどのように行動を起こしたのか――。
 50年前の師のじっせんに学び、現代にも通じる課題を解決しゆくほうさぐる。

50年前の師の「言論とうそう」に学ぶ

 今、テレビやネット、SNSを見るたびに、連日のように戦火のようが目に飛び込んでくる。ニュースを通じて伝わるさんきわまりない状況に、むねけられる。
  
 1974年の当時もまた、現代と同様に、せんらんに巻き込まれてどうこくする人々の姿すがたえなかった。
 戦地の映像がテレビを通して本格的に、おちゃに伝わったのは、ベトナム戦争〈注1〉からであった。
  
 70年に始まったカンボジア内戦〈注2〉の悲惨さは続き、73年の第4次中東戦争〈注3〉は第1次オイルショックを引き起こして、人々の生活をちょくげきした。
  
 一方で、環境問題も悪化のいっをたどっていた。
 72年に国際的なシンクタンクであるローマクラブが発表した報告書「成長の限界」が警鐘けいしょうらしたように、人口増加と経済発展は化石げんかつと環境せんまねくとして、地球の未来へのかんろんが強まった。
  
 また、70年代以降、地球の大気の仕組みが明らかになっていったことで、科学者の間では「地球おんだん」がしんこくな問題としてちゃくもくされるようにもなった。

学問の世界に国境はない

 そうした社会状況の中で、池田先生は世界をめぐり、仏法の「生命尊厳」の法理を調ちょうに、ぶんだんかいの流れを食い止めるために行動を開始したのである。
  
 国際社会に「生命尊厳」の思想を広げゆくため、先生がじゅうした場所の一つが「大学」だった。
 「政治の世界にはきびしい対立がある。しかし学問の世界に国境はない。教育の世界の友情には永遠性がある」
  
 先生は、その信念で海外の大学を訪問。
 74年もしょとうから、1月には香港中文大学、3月にはアメリカのカリフォルニア大学バークレー校、ニューオーリンズ大学、パナマ大学、ペルーのサンマルコス大学などをおとずれ、大学しゅのうや学生とこんだん
 創価学園・創価大学の創立者として、教育交流の道を開いた。
  
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で、先生が、海外の大学・学術機関で初めて学術講演にのぞんだのは、74年4月1日午後。
 日本時間では、第2代会長・戸田城聖先生のしょうつき命日である4月2日の朝に当たっていた。
  
 のちに先生は、「世界の平和をねんがんされ、人類の心に『平和のとりで』をきずかんと戦い抜かれた、わが師の心をめて」と、講演に臨んだ決意を振り返っている。

しょう」から「たい」へ

 先生が「21世紀への提言」として論じたテーマは「生命論」だった。
 「私はきたるべき21世紀は、けつろんして言うならば、生命というもののほんげんに、光が当てられる世紀であると思っております。いな、そうあらねばならないと信じています」
  
 さらに、生命尊厳の世紀を築くためには、よくぼうに振り回される「しょう」の生き方から、大宇宙の根本法にのっとった「たい」の生き方へのてんかんが必要であると語った。
  
 その上で、21世紀が「人間おうの文明」になるかいなかは「人間そのものに目を向け、じょうじゅうへん、不動の力強い不変の生命を発見しうるかどうかにかかっている。そして今は、まさにそのぶんてんである」「人間は知性的に人間であるだけではなく、精神的、さらに生命的にも、人間としてちょうやくげなければならない」――こう結論したのである。

世界へ だいへ 二つのじく

 生命尊厳の思想を広げる先生の言論とうそうじょしょうともいえるのが、1968年9月8日のスピーチである。
 第11回学生部総会で先生は「日中国交正常化ていげん」を行うが、この講演の前半で、21世紀を「生命の世紀」とするビジョンを大々的に打ち出している。
  
 仏法の思想を調ちょうに、社会へ、未来へ、「生命尊厳」の思想を語り広げていく。
 それこそが、「真実の生命の世紀へのほんりゅう」であり、「過去数千年にわたるあくの連続の歴史にしゅうを打つ」道であることをうったえたのである。
  
 68年9月に発表した「生命の世紀」建設へのこうそうは、対話を通じて「思想」の次元へとしんしていった。
 先生の対話の歴史をひもとくと、「生命尊厳」の思想を広げるための二つのじくが見えてくる。
  
 一つは、しきしゃとの語らいである。
 起点となったのは、おうしゅう統合の父クーデンホーフ=カレルギーはくしゃくとの対談。
 67年10月の会見以来、仏教史や世界のどうこうなどをテーマにした語らいは、72年に対談集『文明・西と東』にけつじつした。
  
 72年5月と73年5月には、アーノルド・J・トインビー博士〈注4〉と対談。
 また、73年11月には、博士から対話の相手として紹介されたルネ・デュボス博士〈注5〉と語り合い、真実の生命哲学による、人類の自己へんかくの道を訴えた。

東京の聖教新聞社で行われた1974年5月の会談の1年後、75年5月にパリで再会した池田先生とアンドレ・マルロー氏。「人間の尊貴さは、その無限の可能性にあると信じ、そこにいっさいをかけ、それを規範として行動していきたい」と語る先生に、「期待しています」と応じたマルロー氏。フランス文学者の桑原武夫氏は、両者の対談を「二人の大実践者の対話」と称した

東京の聖教新聞社で行われた1974年5月の会談の1年後、75年5月にパリで再会した池田先生とアンドレ・マルロー氏。「人間の尊貴さは、その無限の可能性にあると信じ、そこにいっさいをかけ、それを規範として行動していきたい」と語る先生に、「期待しています」と応じたマルロー氏。フランス文学者の桑原武夫氏は、両者の対談を「二人の大実践者の対話」と称した

 ことなる文化や価値観をそんちょうしながら、そのこんていにある生命尊厳のばんたしかめる。
 それが先生の対話のスタイルといえる。
  
 74年5月に行われた、作家で美術評論家のアンドレ・マルロー氏〈注6〉との語らいも同じである。
  
 氏の「つぎの世紀の根本問題はテクノロジーの問題となるでしょう。せんのたぐいの問題がますます重要になってくる。もはや人間そうかんてきではなく、人類の敵、というわけです。当然それにふさわしい思想が必要でありましょう」とのてきに対し、先生は「科学文明主義といっても、たしかにそのりょういきのなかの敵というものが変わりつつあり、そこからして、人間の生存自体がおびやかされるにいたっていると思うのです。どうしても生命のなかにひそむエゴをこくふくしなければなりません。したがって私は、人間主義、生命主義の哲学とじっせんとがへんかくの最重要なカギであると思うのです」と応じた。
 生命尊厳の思想を真正面からぶんごうにぶつけている。
 

他者への尊敬 いきづく未来に

 生命尊厳の思想を広げる、もう一つの機軸は、青年との語らいだった。
 72年10月発行の「大白蓮華」から、てい談「生命論」の連載がスタートする。
  
 先生が、てい談相手に選んだのは「青年」だった。
 その一人、川田洋一さん(東洋哲学研究所元所長)は、当時をこうじゅっかいする。
  
 「先生は、全国をとうほん西せいそうし、広布のられる中、命をけずるように、てい談に当たってくださいました。トインビー博士との対談、のちに『生命を語る』として出版される『生命論』、そしてUCLAの講演には、いっかんして生命へのがあります。この時、先生が語り残してくださった『生命論』がいかにたくえつしたものであるかを知ったのは、80年代に入ってからです。私自身、世界各国を訪れ、国々の状況をはだで感じる中、例えば、モスクワ大学のログノフ総長ら識者と先生との対談の様子を目の当たりにし、先生のせんけんめいと、それに対する世界からの期待としょうさんを実感したのです」
  
 「世界の識者との語らい」と「青年との語らい」――この二つは、まさにへいこうして行われた。
 生命尊厳の思想を広げる言論闘争は一代かぎりのものではない。
 ゆえに先生は、みずから手本をしめしつつこうけいの人材を育成していったのである。

本年2月、ベルギーのブリュッセルにある欧州議会の施設内で開かれた、池田先生の業績をたたえる行事「対話と人間革命による平和の推進――池田大作の生涯」。ローマクラブのディクソン=デクレーブ共同会長ら各界を代表する識者が登壇した

本年2月、ベルギーのブリュッセルにある欧州議会の施設内で開かれた、池田先生の業績をたたえる行事「対話と人間革命による平和の推進――池田大作の生涯」。ローマクラブのディクソン=デクレーブ共同会長ら各界を代表する識者が登壇した

 「生命の世紀」の建設は、世代から世代へ行動が受けがれる中で成しげられるものである。
  
 この先生の信念を象徴しょうちょうする出来事が50年前の夏にきざまれている。
 先生はぼうきわめる日々の中で、時間をこじけるように青年の中に飛び込んでいった。
  
 74年7月の「夏季講習会」。もうしょの中、先生は4日連続で、創価大学で開催された学生部の「学生大会」に出席。
 講義を担当する学生部のリーダーとのこんだんにものぞみ、「社会のいずこの分野に進みゆこうとも、守り合いはげまし合いして、生命の世紀を建設する文字通りの“本門のかく”たる存在であってもらいたい」と期待を寄せている。
  
 生命尊厳の哲学をかかげた創価大学の開学(71年)から3年。講習会には多くの創大生も集っていた。
  
 その後も、3日連続で、男子部の「全体集会」に出席するなど、計1週間、創大の体育館で、先生はあせだくになりながら、生命尊厳の思想を継ぐ青年の育成へ、しんけつそそいだのである。
  
 懇談、スピーチや講義、あるいは小説『人間革命』『新・人間革命』やエッセー、しいなどを通じて、世界の青年に生命尊厳の思想をたくす労作業は、その後、半世紀近くにわたって続けられた。

本年3月、東京・国立競技場で開催された「未来アクションフェス」

本年3月、東京・国立競技場で開催された「未来アクションフェス」

 74年の夏季講習会にも参加していた川田さんは語る。
 「先生の『生命尊厳』の思想を受け継ぐ。それは、の精神をみなぎらせ、目の前の一個の『生命』を尊重し、ぎょうの実践をつらぬくことです。そして、後継の青年部、未来部を育て、先生の精神を世界へ、未来へ、広げていくことであると信じます」
  
 その「生命尊厳」の思想は、今、世界が直面する危機を前に、ますます重要性を増している。
  
 本年3月、東京の国立競技場で行われた「未来アクションフェス」にも、この思想を体した創価の青年たちがさんかくし、同世代の若者たちと、気候危機とかくへい問題の解決への行動をちかい合った。
  
 創価学会と長年にわたって歩みを共にしてきたローマクラブのサンドリン・ディクソン=デクレーブ共同会長は語っている。
 「青年は、変革の主体者であり、人々の希望と夢をそうけんにない立つ、この時代の指導者であります。個人の人間革命、また若い世代に対する池田氏の呼びかけが、今ほど重みを増している時はありません。現在の社会が直面するふくざつな諸問題に立ち向かい、尊厳とはんえいと他者への尊敬がいきづく社会を、未来を、この地球上に築く――そのための人間革命の潮流が花開く時への思いを強くします」

〈注釈〉

 注1=ベトナム戦争 ベトナム統一の主導権を巡り、南北の勢力が対立した戦争。アメリカはインドシナの共産化を恐れ、1965年、南ベトナム政府を支援する形で本格的に軍事介入。これに、北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力が対峙した。戦火は隣国のカンボジア、ラオスにも拡大。73年に停戦協定が成立。米軍は撤退し、その後、南ベトナム政府は崩壊。南北の統一が実現し、76年にベトナム社会主義共和国が成立した。第2次インドシナ戦争ともいわれる。
  
 注2=カンボジア内戦 1970年、ベトナム戦争のさなか、アメリカが支援するロン・ノル将軍ら右派勢力が、クーデターでシアヌーク国王を追放し、内戦状態に。73年にパリ和平協定が締結され、ベトナム戦争が終結すると、米軍はカンボジアから撤退。ロン・ノル政権は力を失い、新たにポル・ポトが政権を握った。ベトナムの介入によって、79年にポル・ポト政権は崩壊。20年以上に及んだ内戦は、その後、国連の介入などによって収束した。
  
 注3=第4次中東戦争 パレスチナ地方を巡り、イスラエルとアラブ諸国の間で勃発した4度目の戦争。1973年、エジプトとシリアがイスラエルに進軍。イスラエルが反撃に転じると、アラブ諸国は石油戦略を発動。イスラエルを支援する国々への石油輸出を停止・制限し、OPEC(石油輸出国機構)は原油価格を値上げ。これにより、第1次オイルショックを招いた。
  
 注4=アーノルド・J・トインビー 1889年、イギリス生まれ。オックスフォード大学を卒業後、ロンドン大学教授、王立国際問題研究所研究部長などを歴任。独自の歴史観で文明の興亡の法則を体系化。「20世紀最大の歴史家」と称される。主著に『歴史の研究』など。池田先生との対談は1972年5月、73年5月に、合わせて約40時間に及び、対談集『21世紀への対話』に結実している。75年に死去。
  
 注5=ルネ・デュボス 1901年、フランスで生まれ、後にアメリカに帰化。ロックフェラー大学教授、ハーバード大学教授、ニューヨーク州立大学教授、アメリカ細菌学会会長などを歴任。「抗生物質時代」を築いた碩学として著名。細菌生態学の分野などで業績をあげた。『健康という幻想』や『人間と適応』など邦訳された著書も多数。『人間であるために』は69年のピュリツァー賞を受賞した。82年に死去。
  
 注6=アンドレ・マルロー 1901年、フランス生まれ。作家、美術評論家。21歳で仏領インドシナに渡るも、母国の植民地政策に疑問を抱き、独立運動を支援。中国でも革命運動の動乱を目の当たりにし、『征服者』などを執筆。中国革命を舞台にした『人間の条件』で「ゴンクール賞」を受賞した。スペイン内戦や第2次世界大戦下でのレジスタンスにも加わるなど、“行動する作家”として不動の評価を得る。ド・ゴール政権で情報相、文化相を歴任。池田先生とは、74年5月、75年5月の2度、東京とパリで会談。対談集『人間革命と人間の条件』として発刊された。76年に死去。