戸田城聖先生 5 | 励まし慈悲感動通信

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戸田先生の悟り (5)(権教の仏・菩薩)

 つぎに 「仏」 といえば、一般的には仏画や彫像の仏像などを、仏であると思っている方々が多くおられます。
 これらの仏画や仏像を本尊として修行するのは、正法・像法時代の修行法であって、末法の今日では無益で用を成さないのである。

 『本尊抄』 に、「利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々なり例せば独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり」(242P) と仰せです。

 正法・像法時代の衆生は、「本已有善(本と已に善有り)」 といって、過去世において仏道修行して善根を積んでいる、上機上根の衆生である。ゆえに、華厳などの権教であってもそれを縁とし、法華経の久遠の下種を覚知して、成仏することができたのである。

 『曽谷入道等許御書』 に、「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃(う)たしむるの時なり」(1027P) と仰せです。

 末法の衆生は、「本未有善(本と未だ善有らず)」 といって、釈尊と無縁の権実の善根のない下機下根の衆生である。ゆえに、権実の仏像などを本尊としても、理体を観ずる能力がなく、成仏することはできないのである。
 したがって末法は、「久遠名字の妙法」 を直ちに下種して、不軽菩薩のように “毒鼓を撃たしめる時” なのである。
 ここまでは、衆生の機根と教法との関係性の上から、仏画・仏像などでは成仏できないことを簡単に述べました。
 
 そのほか、常識的に考えても、権教の仏画・仏像などは、衆生と縁がなく、真の仏にならないことが解かります。
 例えば、阿弥陀如来は、実在するのか?、西方十万億土という国土は何処にあるか? と問えば、すべて実在しない架空の話なのである。(他の大日・薬師・薬王・観音・地蔵なども、みな同じことなのである)
 それは釈尊が、衆生を真実の法華経に誘引するために、仮に説いた教え(権教) であるからである。ゆえに、架空の阿弥陀如来が、有りもしない極楽浄土に、幾ら往生できると約束しても、それは空手形であり夢物語なのである。
 そうであるのに法然・親鸞らは、無慙にも無知な衆生を誑(たぶら)かせ、真実の法華経を “捨てよ・閉じよ・閣(さしお) け・抛(なげう) て” させて、正法(法華経)を誹謗した。

 『立正安国論』 に、法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至(ないし)其の人命終して阿鼻獄に入らん」(29P) と有りますように、浄土宗(他の宗教も)は、堕地獄の因なのである。

 戸田先生の 「仏とは生命なり」 の悟りは、本当の仏とは、実は我が己心の中に在るということを、観念論ではなく、実体験のの上から教えてくださいました。御書には、次のような御金言があります。

 「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」(766P)
 「惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり」(752P)
 「一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され」(414P)
 「我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、…… 然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」(1304P)
 “我が身が本覚の如来” なることの御文証は、このほかにも多数あります。
 
 日連大聖人は、ご化導のはじめから何回も何回も繰り返し、“妙法を唱うる我が身が仏である” と教えてくださいましたが、「雖近而不見(近しと雖(いえど)も而も見えず)」(寿量品) の故なるか、弟子等の浅学・浅智なる故か、なかなか法華経の心・精神を、理解するまでには至りませんでした。

 江戸時代の中期、中興の祖・日寛上人は、それまでの各派の邪義を破折し、御書の研鑚とそれを整足されて、「日蓮本仏論」 の日蓮教学を確立されました。しかし、時は封建時代であり、幕府の檀家制度の真っただ中、それは日の目を見ることはできませんでした。

 戸田先生の 「仏とは生命なり」 の悟りは、これまでに説かれた仏・菩薩たちの偉大な力・功徳を信じて、それにすがろう・功徳を得ようとする信仰の姿勢を一変するものである。
 それは、これら己心の外の権教の仏・菩薩の本尊には、真の力・功力は無いのだから、幾らすがっても何にも成らないのである。
 では、問題解決の力はどこに在るかといえば、他ならぬ我が身の己心・生命のなかにあるのである。
 ゆえに、信仰とは、ただ功徳をお願いし・すがるだけのものではなく、祈りとは、こうしますという “決意と実践” がなければならないのである。その “信力・行力” があって、はじめて “仏力・法力” が涌現するのである。

 戸田先生は、「自らの命(いのち)に生きよ」 と御指導なされています。結局、自己自身に生きる以外にないのです。その自己の生命を輝かせるための本尊であり、信仰なのであります。
 (戸田先生の 『巻頭言集』 の中に、同じ題名の論文がありますので、読んでみてください)