戸田先生の悟り (4)(仏とは生命なり)

 戸田先生の一回目の悟りは、「仏とは生命なり」 ということであります。
 
 池田先生は、「戸田城聖のこの時の悟達の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。 …… 仏法を見事に現代に蘇らせ、近代科学に優に伍して遜色のないものとした、といえよう」 と述べられています。
 先生の仰せの通りであると確信はしますが、私は世界の哲学や近代科学については、何も分かりませんので、比較して論ずるようなことはできません。
 戸田先生の 「仏とは生命なり」 という言葉自体、もう既に、「仏法を見事に現代に蘇らせ」 ている、と思っています。
 ゆえに、世間一般の方々が、漠然と思っているであろう 「仏」 のイメージとは、格段の差があるのであります。したがって、世上に流れている 「仏」 のイメージについて、少々述べてみたいと思います。

 まずはじめに、“先祖が仏である” とか、“死んだら仏に成る” とかいうことであるが、この様なものは俗語の類いであって、仏法の教えに反しているし、何ら関係のない事がらである。
 「仏」 とは、目覚めた人という意味で、一切諸法の真理を悟り、よく他を導いて真理を得せしめる覚者をいう。このように、万人を救済する力ある 「仏」 に、何も修行もしなくて、死んだらそのままで成れるなんて、因果の法理に反するものである。

 「仏とは生命なり」 の “生命” は、現に生きている者の命のことであり、決して死者のことではない。したがって、生者を対象としているのであり、本来の仏教は、死者にかかわる教えではないのである。じっさい、釈尊をはじめ日蓮大聖人や弘法・法然・道元等の諸宗の元祖たちも、自分の弟子・信者の葬儀にかかわったという記録はないのである。 

 しかし、このような先祖を崇める考えに至ったのは、もともと日本の神道は、わが民族の偉人や英雄たちを 「神」 として崇めていました。また、中国から儒教や道教が伝来し、その教えの 「先祖崇拝」 の思想が取り入れられ、これが広く民衆の間に広まった。
 この先祖崇拝思想が、僧侶の堕落とともに、仏教のなかに取り入れられたのである。

 評論家の小林正博氏は、日本の既成仏教の大半は、祖師の精神からかけ離れ “三つの放棄” を行ってきた歴史がある、と述べています。 (第三文明・2011・12月号・28P)
 
 1)室町時代後半の葬送儀礼体質への変貌による “生の仏教” の放棄、 
 2)江戸時代に確立された檀家制度による “布教の放棄”、
 3)明治時代初頭の聖職者の妻帯による “出家の放棄” という三段階です。
 しかも宗門はそのうえに、あってはならない “信徒の大量放棄” を行った。…… この日本仏教史上でも前代未聞の愚行は、日蓮の精神を根底から否定し、ついには日蓮をも放棄してしまったと言えるでしょう、 と論じています。

 『佐渡御書』 に曰く、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」(957P) と仰せです。
 仏法は外部から破壊することはできないが、ただ内部にいる悪僧によって破壊される、と言うことです。

 以上のように、外道の先祖崇拝思想によって、先祖が仏であるという間違った見解を、悪僧たちはこれを正すどころか利用して、葬送の儀式を己が生業とするゆえに、人類救済の仏法を、葬式仏法と揶揄(やゆ)されるまでに貶(おとし)めたのである。
 
 「仏とは生命なり」 との戸田先生の悟達は、“仏とは何か” という 今までの死のイメージを一新する、生の躍動する本当の 「仏」 とは何か を教えて下さいました。 これによって、滅亡のふちにあった日蓮仏法は、蘇(よみがえ)ることができたのである。