戸田先生の悟り (3)(二回目の悟り)

 その後も、戸田先生はさらに法華経を読み進めました。少なくとも文々句々については、殆んど理解できるまでになりました。
 しかし、ここで戸田先生は、法華経に対して、第二の疑問を懐くようになった。それは、釈迦はいったい法華経二十八品で、何を説きあかしたかったのであろう、という根本的な疑問がおきたのであった。
 先生の頭は、寝ても覚めても、法華経の真理とは何か、具体的に何か、と問いつづけていた。 先生は、かってない苦悩におそわれたのであります。 

 十一月中旬、元旦から決意した唱題は、すでに二百万遍になろうとしていた。
 そのようなある朝、彼は小窓から射しこむ朝日を浴びて、澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目をあげていた。
 彼は、何を考えていたのだろう。何も考えていなかった。 …… あえていうならば、ここ数日、再三読みかえしている法華経の従地涌出品第十五だけが、頭の片隅に残っていた。
 ………
 ―― 是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声(おんじょう)を聞いて、下より発来(ほつらい)せり。 一一の菩薩、皆是れ、大衆の唱導の首(しゅ)なり。 各六万恒河沙等の眷属を将(ひき) いたり。 況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。 況や ……

 彼は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。 数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。
 夢でもない、幻でもなかった。それは、数秒であったようにも、数分であったようにも、また数時間であったようにも思われた。 はじめて知った現実であった。 喜悦が全身を走り、―― これは嘘ではない、おれは今ここにいる と、自分で自分に叫ぼうとした。

 彼は一瞬、茫然となった。 両眼からは熱い涙が溢れてならなかった。 彼は眼鏡をはずして、タオルで抑えたが、堰を切った涙はとめどもなかった。 おののく歓喜に全生命をふるわせていた。
 彼は涙のなかで、「霊山一会、厳然未散」 という言葉を、ありありと身で読んだのである。 彼は何を見、何を知ったというのであろう。 

 ―― 此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり ……

 ―― あの六万恒河沙の中の大衆の一人は、この私であった。まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ。 なんという荘厳にして、鮮明な、久遠の儀式であったことか。 してみれば、おれは確かに地涌の菩薩であったのだ
 ………
 ―― よろしい、これでおれの一生は決まった。 きょうの日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ

 彼は同時に、わが使命をも自覚したのである。 そして、来し方を思い、はるかな未来を望みながら、彼はいま四十五歳であることを念(おも)った。
 …… 孔子が生涯をかえりみて、弟子のために、年齢と思想との理想的な調和を十年単位で説いた図式が、念頭に浮かんだ。
 ―― 四十ニシテ惑ハズ、五十ニシテ天命ヲ知ル。
 四十五歳の彼は、そのどちらでもない。 しかし、いまの彼は、この二つを一時に知覚したのである。
 彼は大股に歩きまわりながら、なにものかに向かって叫んだ。 
 「彼に遅るること五年にして惑わず、彼に先だつこと五年にして天命を知りたり」  (文庫人間革命第4巻・21~24P)
 
 戸田先生の 「獄中の悟達」 は、先生ご自身の広布の使命と優れた資質によることは当然でありますが、それだけでは無くそれ以上に、牧口先生との共同作業、すなわち、「師弟不二の戦い」 の結果であると思っています。

 獄中の悟達の日は、何時だろうかと思い人間革命を見ますと、“十一月中旬”、“唱題が二百万遍” になろうとしていた、“そのようなある朝” とだけしか書かれていません。 そこで、僭越なことでありますが、私の考えを述べさせて頂きます。

 「師弟不二の悟達」 であるならば、それは 「11月18日の朝6時」 ごろ、牧口先生のご逝去と時を同じくしていたのではないかと思われます。
 なぜ、そのように思うかといえば、昭和21年11月17日、牧口先生の三回忌法要の席上、戸田先生は、次のように述べられています。 

 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました。 そのおかげで 『在在諸仏土・常与師俱生』 と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながら身読することができました。 何たる幸せでございましょうか」 と、報恩感謝の言葉を述べられております。  (文庫人間革命第2巻・86P)

 “牢獄まで連れていってくださった。 お供した” と言うことは、「師弟不二」 のお姿・以外の何ものでもないと思います。 「師弟不二」 ならば、「生死不二」 であるはずです。
 「妙は死・法は生なり」(1336P) と。 妙法即生死です。 師匠の牧口先生は 「死」 を表し、弟子の戸田先生は 「生」 を表しています。これまた、明暗同時・「師弟不二の成仏」 であると思っています。

 日蓮大聖人は、「生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(1504P) と仰せです。 「生」 と 「死」 というかたちは違っていても、師弟共々に、虚空会の久遠の儀式に参列し、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌して、「霊山一会、厳然未散」 という言葉を、ありありと身で読んだのであります。

 牧口先生の時代は、折伏は価値論から入り、御本尊を最高価値としたものの、帰納的な価値論の思考から、なかなか抜けきらないでいました。 牧口先生は、それ故に “学会は発迹顕本しなければならない・発迹顕本しなければならない” と、常々仰せられていたそうです。
 
 戸田先生の 「われ地涌の菩薩なり」 との悟達は、それはそのまま創価学会の 「発迹顕本」 であり、牧口先生の願い通りの質的転換というべきものがなされたと思います。
 戸田先生の 「獄中の悟達」 によって、学会創立記念日の 「11月18日」 は、学会総体として 「地涌の菩薩の使命」 に目覚めた 「創価学会・原点の日」 となったのであります。