〈ブラボーわが人生 信仰体験〉第136回 99歳 平和の響き2024年5月18日

  • 「今まで生きてきて、良かった」

来月100歳になる増島甲平さん

来月100歳になる増島甲平さん

  
 【静岡県伊豆市】大きなひとみおくげんかくさをただよわせつつ、ぼくとつと温かみのある言葉をつむぐ。ますじまこうへいさん(99)=副本部長。今日を生きていることの喜びが、一言一言にかがやきとなってあふれている。
  

「ちょっとでも取材しやすいようね」と、部屋を片付けてくださった

「ちょっとでも取材しやすいようね」と、部屋を片付けてくださった

  ◇◆◇
  
 私なんか、会ってもらうほどの者じゃないです。じいさんになっちゃったからね、やっと歩いてるようなもんで。電話が鳴っても、なかなか出られないようなことですよ。
 はい、4歳で父が亡くなりましてね、病気で。母が農業してたんですけど、兄がしょうしゅうくらったもんですから、小学校行きながら手伝ったんですよ。何年かして、兄がもどってきましてね、次は私だと思って18歳だったかなあ、海軍に志願したんです。
 「ゼロ戦」ってごぞんじですか。小型のせんとうなんですけどね、そこに250キロのばくだんを積み込むのが、私の仕事でした。
 飛行場にゼロ戦がずらっと並べてあるでしょ。とっこうたいいんは1カ所に集まって、別れのさかずきわして、乗り込むんです。自分の戦闘機が決まるっていうのは、早く言えば、かんおけが決まるっていうことですからね。どんな気持ちですかねえ、お国のために命を捨てるって。
  

会合でマイクを握っていた甲平さん(中央)

会合でマイクを握っていた甲平さん(中央)

  
 飛び立つまで、そばについていてあげるけど、げきれいしていいんだか、なぐさめていいんだか、言葉ではとっても表せられないようなね……。帰ってこられないのが、お互い分かってるから。
 中には、ジャンパーいで「形見にもらってくれ」とか、手紙を出して「国の母ちゃんに送ってくれ」とかもありましたよ。
 本当は、私もパイロットになりたかった。だけど小学校もろくに通えてないから、試験を受けられなくて。せめてもの気持ちで、布切れでゼロ戦をみがいてあげとったわけです。……みんな死んでしまったよ(ちんもくが続く)。
  
 戦争から帰って、うんと親孝行しようと思ったんですよ。子どもが生まれた時はね、母親も喜んでましたよ。だけどね、昭和33年(1958年)のがわ台風があって、母と兄の子ども4人が亡くなっちゃった。むなしいというか、やりきれないというか……私は初めて、声をあげて泣きました。
  

狩野川に架かる大仁橋

狩野川に架かる大仁橋

  
 〈りんかくのない未来。生きていくことの意味を引きずっていた〉
  
 信心したのは昭和41年です。最初は「そんなの入らねーよ」なんて逃げてましたけどね、家内が頑張ってたから、だんだんつられちゃったような感じでね。
 集落がはなれてたもんで、車で送り迎えしてたんですよ。夜道にヘビなんかが出たら、あぶないじゃないですか。
 ええ、退たいくつはしませんでしたよ。そこのおうちがカラーテレビでめずらしいもんだから、ワーッてなるでしょ。
 こっちは居間でテレビ見て、あっちはしきで座談会してる。だけど、だんだん座談会の方が気になっちゃいましてね。
 というのも、がってるんですよ。つらいことも、うれしいことも、みんながせきに発表してるでしょ。拍手したかと思えば、歌い出したりしますからね、しまいにはカラーテレビじゃなくて、そっち向いてすわってた。
  

玄関に掲げた富士の油絵。「富士山って登れば登るほど、遠くに感じるから不思議だよね」。甲平さんが描いた

玄関に掲げた富士の油絵。「富士山って登れば登るほど、遠くに感じるから不思議だよね」。甲平さんが描いた

  
 〈情熱のはつは、確かなせきえがいて進む。行き着いたのは小説『人間革命』のぼうとう。「戦争ほど、ざんこくなものはない」。命を連打されるようなしょうげきだった〉
  
 あの一文から目がはなれなくってね。まったくその通りですよ。思い出しちゃったんです。たしか、戦争のおしまいの方でした。
 飛行場のそばに民家があって、通りがかったら、おばさんにめられましてね。「息子がとっこうたいになった」って。
 「この前、息子から手紙がとどいて『絶筆』ってあった」
 穏やかに話していたから、この人は受け止めたんだなと思ったんですよ。でも、私は何て言ったらいいか分からなくって、うつむいたんです。そしたら、おばさんの両手が見えたんです。
 こぶしになってふるえてた。受け止めたんじゃない。さっきから全身で泣いてたんですよ。こういう母がいること自体、戦争そのものがさんだし、勝った負けたじゃない。
 

甲平さんが作ってきた座談会の入場券

甲平さんが作ってきた座談会の入場券

  
 「戦争ほど、ざんこくなものはない」
 この一文に、私はしょうがいつながっていこうと決めたわけです。母を悲しませる戦争なんか、許しちゃいけない。
 ですからね、目立ったことはできないけど、自分のできることは何でもやらせていただこうって、ただそれだけの人間ですよ。
 聖教新聞を20年ほど配らせてもらったり、座談会の入場券を作ったりしただけで、なにも新聞にるようなことをしてきたわけじゃないですから。
  
 〈取材したのは、こどもの日。2階でひ孫たちのにぎやかな声がする。どんな時に「平和」を感じるか、聞いた。甲平さんの人さし指が真っすぐ伸びて、てんじょうを指さした〉
  
 こういう声を聞く時です。こういう声を聞ける今日は、平和だと思う。ほら、笑い声がいいでしょ。
 池田先生についてきて、しみじみ思うのは、今まで生きてきて、良かったなあってこと。
  

戦中の話を伺った後、自宅の前で写真を撮った。甲平さんは空をしばらく見上げていた

戦中の話を伺った後、自宅の前で写真を撮った。甲平さんは空をしばらく見上げていた

  
 そうそう、平成3年だったかな。先生と田方文化会館で勤行させてもらったんですよ。
 感激でいっぱいだったですね。朗々たる声を忘れないですよ。先生はみんなを愛してるっていうか、一人一人の幸せを本気で祈ってくれているんだなって感じましたね。
 ともかく、小説『新・人間革命』の冒頭が素晴らしい。
 「平和ほど、とうときものはない」
 全くその通りだと思うね。この年になりましたけどね、今はどれだけ声をしぼってでも、平和をさけんでおきたいです。
 というわけで、これから題目あげます。今はもう題目をあげるのが、一つの楽しみみたいになってますからね。
 なので、この辺でそろそろ。
  

甲平さんが撮影した「工事現場の夜明け」

甲平さんが撮影した「工事現場の夜明け」

  
●後記

  
 血をくようなひとごとを聞いた。
 「何であんなこと言ったかなあ……」
 戦闘機に乗り込む少年飛行兵に「元気で行ってこい」と送り出したことだ。飛び立つ瞬間の表情が、100歳を前にしても、まぶたの奥から離れない。
 「そうようして万里をわたり、へき、松頭にかってせんじんぶ」(新36・全26)
 池田先生を人生の師匠と定めた。年月に誠実とけんきょを重ね、甲平さんは平和のとうとなっていく。
 本紙の配達中、自然の美しさに見とれた日があった。工事現場のクレーンと朝焼けが重なる時間帯だ。甲平さんは本紙を配り終えてから、カメラを抱えてもう一度、工事現場まで走った。それは単なる景色というよりも、平和であることのありがたみを、一枚の写真にたくしたのだろう。
 「そんな自分になれたんだね」
 誇張には聞こえない。
 来月の3日で、甲平さんはちょうど100歳になる。子どもたちが再び集う。
 「家族が来てくれて、わいわいするのは楽しみですよ」
 こうかいどうこくは、こうした平和のひびきの中に包まれゆく――。(天)