民衆の中へ

2024年5月17日

  • 不朽の価値創造を担う「心の王者」に

 1987年(昭和62年)5月1日、池田大作先生は東京・青梅市にある吉川英治記念館を訪れた。『宮本武蔵』『三国志』など、“大衆文学”で人気を博した昭和の文豪・吉川英治氏。池田先生も親しんだ国民的作家である。先生は、恩師・戸田城聖先生と作品に込められた“心”を何度も語り合った。そして、文豪の生き方や小説を通して、友に指針を示してきた。上・下2回にわたって、吉川氏を巡る、池田先生の足跡を紹介する。

逆境に希望を持つ

 東京・青梅市の吉川英治記念館は、吉川氏の邸宅を整備した建物。終戦前年の1944年(昭和19年)から9年間、氏はここで暮らし、『新・平家物語』を起稿した。
 87年(同62年)5月1日、同記念館を訪問した池田先生は、文子夫人らと語らった。文豪の筆による「我以外皆我師」との言葉が深く心に残った。先生は「『生涯求道』ともいうべき深き探求の心を感じ取った」と述懐している。
 記念館を訪問後、先生は亡き氏を偲んで、「富士のごとくに」と題する詩を詠み、夫人に贈った。
 「文は人なり境涯ぞ/史観鋭く確かにて/時世の描写は優れりと/我が師も高くたたえたり」
 「その文学の峰高く/富士のごとくに聳えたり/ああ燃えゆかむ旭日に/ああ輝きぬ永劫に」
 ――1892年(明治25年)に生まれた吉川氏は、自らの作品の性質の一つとして、“逆境の登攀”を挙げた。「始終何か登攀を要する、あるいは逆境を如何によりよく生きて行こうか、という生活が始終、ぼくのコースになる」と語っている。
 また、「希望」を大切にした。「どんな逆境におかれても希望の燈を持ちたい、同時に読者にあらしめたい、これがぼくの歩く道」と述べている。
 “逆境の登攀”も「希望」も、氏の人生と深く関わっている。12歳から家計を支えた。印章店の手伝い、植字工、行商人……。造船所で働いていた時には事故に遭い、九死に一生を得た。
 1921年(大正10年)に東京毎夕新聞社に入社した氏は、2年後の関東大震災に遭遇後、文学に専心する意思を固めた。
 苦労に苦労を重ねた氏は、「歴史上の人物、故人というものは決して死んだ人ではない」との信念で、宮本武蔵や平清盛などを描いた。その筆に「民衆の血液の中に入って行って、生きて行くものでなければならない」との魂を込めた。
 池田先生は小学生の時、吉川文学と出あった。担任の先生が、毎日『宮本武蔵』を読み聞かせてくれた。「武蔵の時間」として皆と喜んだ、と振り返っている。
 終戦後の一時期、先生は新橋の印刷会社に勤めた。心に映したのは文豪の姿。吉川氏が印刷会社に勤めていたことを胸に、職場を誇りとした。

東京・青梅市にある吉川英治記念館を訪れた池田先生。この日を記念し、「嬉(うれ)しくも ついに来(きた)りし 草思堂(そうしどう)」と詠んだ(1987年5月1日)

東京・青梅市にある吉川英治記念館を訪れた池田先生。この日を記念し、「嬉(うれ)しくも ついに来(きた)りし 草思堂(そうしどう)」と詠んだ(1987年5月1日)

自分を作りあげよ

 第2代会長・戸田先生は、吉川氏の『宮本武蔵』を愛読した。第2次世界大戦の渦中、治安維持法違反と不敬罪の容疑で投獄されていた時、獄中から要請した差し入れに、『宮本武蔵』があった。
 同書には、池田先生が「脳裏を離れない」と語った文がある。
 「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」
 ある時、戸田先生は富士を仰ぎながら、池田先生に語った。
 「大作、静かに見えるようだが、富士山のてっぺんは烈風だよ。頂点に立つ人間は、烈風を受けなければならない」
 池田先生は小説『人間革命』『新・人間革命』の執筆に際して、何かの参考になればと、『宮本武蔵』をひもといている。
 先生が吉川英治記念館を訪問した時、吉川氏の次女の背丈を優に超える原稿が積まれている写真があった。400字詰めで1万2000枚に及ぶ『新・平家物語』の原稿。その高さが、連載開始の年に生まれた次女の背丈を超えたのである。
 この『新・平家物語』も、戸田先生が好きだった作品だ。1955年(昭和30年)、映画化されると、恩師は「一緒に見に行こう」と池田先生を誘った。だが、池田先生に急な会合が入り、師弟しての鑑賞は実現しなかった。
 同年10月8日、池田先生は御書講義のため、大阪へ。翌9日、講義を終えた後、関西の同志と共に映画を鑑賞。この日の日記につづった。
 「平清盛の、夢、建設、栄華、衰亡を、考える」
 「特に、青年期を大事にと思う。理想、勇気に満ちた、前進。而し、それよりも大事なのは、晩年の人生である。心すべし。心すべし」
 池田先生は折々に、『新・平家物語』を通して、社会観や人生観を、後継の青年に語ってきた。九州を訪れた時、若き源義経を陰で支えた郎党を「草の実党」と呼んだことに触れ、若人たちに訴えた。
 「青年部がいれば、妙法の『草の実党』である俺たちがいれば、大丈夫だ――そう言い切れる自分になってほしい」

「苦労のない人生は、愚かな人間をつくる」――吉川英治氏の逸話を通し、池田先生が本部幹部会でスピーチ。先生の提案で勝ち鬨(どき)を(2007年1月、東京牧口記念会館で)

「苦労のない人生は、愚かな人間をつくる」――吉川英治氏の逸話を通し、池田先生が本部幹部会でスピーチ。先生の提案で勝ち鬨(どき)を(2007年1月、東京牧口記念会館で)

“本当の時代人”

 昭和の名作を彩った挿絵画家の岩田専太郎。まだ駆け出しだった頃、大阪毎日新聞に連載された吉川氏の『鳴門秘帖』の挿絵を担当した。その最後、驚くことがあった。文豪自身が原稿を持ってきたのである。
 岩田氏は「一挿絵画家に対するいたわりは、おそらく他人全部に対しての温かい気持の一部であろう」と。この言葉の通り、文豪は大衆を敬愛し、大衆に学んだ。
 吉川氏は「生活の最前線に立って、実社会に働いている人こそ、ほんとの文学を体験し、ほんとの時代人である」。そして、そこから「学んで、表現の労をとるのがほんとの生きた文筆の人である」と述べている。
 この言葉を通して、池田先生は記した。「悲しむ民衆の海のなかで、信心は、生活法であると語り、自ら幸福の実証を打ち立ててきた、わが学会の友は、“文学を体験した本当の時代人”といってよいだろう」
 吉川氏は生涯を通して、数々の賞を受けた。だが、常に「貰うならば、大衆の手による大衆賞を」と望んだ。文化勲章の内定の際は、まだ受章に値しないと断っている。評論家・小林秀雄氏の「受章されたら読者が喜びますよ」との勧めに「読者から頂く勲章なら」と承諾したという。
 池田先生は、「文豪の吉川英治氏の信念は、『大衆即大知識』であった。ゆえに、その大衆に語りかける執筆は、『厳粛にならざるを得ない』『自分の身を削らずにいられない』と言われたのである」と。
 また、吉川氏の作品を巡る対談で、不朽の価値創造を担う「心の王者」にと呼び掛けている。
 先生は「限りある命の時間との、壮絶な闘争」との覚悟で、65歳の時から小説『新・人間革命』の筆を執り始めた。その新聞小説の連載回数は6469回。「日本一」である。
 ◆◇◆ 
 「苦徹成珠」――吉川氏は、この言葉を人に贈り、自らも心にとどめた。吉川英治記念館を訪問した翌日の1987年5月2日、池田先生は5・3「創価学会の日」を記念して、青年部に和歌を詠んだ。
 「哲人の 苦に徹すれば 珠と成る この言 頼もし 若き君らへ」

作家・吉川英治氏(朝日新聞社提供)

作家・吉川英治氏(朝日新聞社提供)

【引用・参考文献】池田大作著『吉川英治 人と世界』(六興出版)、吉川英明著『父 吉川英治』(同)、吉川英治著『吉川英治全集』46・52、『宮本武蔵』『新・平家物語』(講談社)、同著『われ以外みなわが師』(大和出版)、復刻版・吉川英治全集月報『吉川英治とわたし』(講談社)