地涌の菩薩(7)

 

<動執生疑(完)>


 “裸一貫”の、

ありのままの凡夫、

「人間丸出し」の勇者。

それが地涌の誇りなのです


 地涌の出現とは、

「生命の底力は、かくも偉大なり!」

という壮大な轟きです。地響きです

 

地涌の出現とは、
万年の未来へと続く
「地球革命」
への船出のファンファーレ

 

 池田 境涯革命です。個人の境涯革命を一人一人、広げていくことによって――これが地涌の涌出だが――社会全体の境涯を変える戦いです。人類全体の境涯を高めるのです。この変革が「大地を打ち破って」という姿に、象徴的に表されているのではないだろうか。
 斉藤 その意味では、法華経の会座にいた大衆の「始成正覚へのとらわれ」は、自分がどこから来たのか知らない――つまり自分自身の根源である「永遠なる生命エネルギー」を知らないということですね。これは現代人の迷いにも通じますね。
 池田 その通りです。自分の生命の偉大さに気づかないゆえに、小さな枝葉末節にとらわれてしまう。民族とか人種とか、性別とか社会的地位とか。そうした、あらゆる差異を突き抜け、人間としての根源の力で人々を救うのが地涌の力です。“裸一貫”の、ありのままの凡夫、「人間丸出し」の勇者。それが地涌の誇りなのです。いわば、地涌の出現とは、「生命の底力は、かくも偉大なり!」という壮大な轟きです。地響きです
 これを世界に広げていくのです。本門の“仏陀観の変革”は即、根本的な“人間観の変革”を意味している。
 遠藤 はい。米ジョージタウン大学のD・N・ロビンソン博士(名誉教授)は「現代の迷信」について、こう論じています。
 「人は自分をどんな存在と考えるかによって、その行ないが変わってくるし、他者についても、それをどんな存在と見るかによって、求めるところが違ってくる――これはほとんど自明の理といってよいだろう。そしてこの理(ことわり)は、人間の社会や政治の歴史の中にも、はっきり見て取ることができる。人間を『神の子』と見るか、『生産の道具』と見るか。『運動する物体』と見るか、あるいは『霊長類の一種』と見るかによって、社会や政治のあり方は著しく変わってくるのである」
 博士は、現代人は「唯物論」とか「環境決定論」とかの“迷信”に閉じこもっているとして、その“迷信”を疑うべきであると主張しています。
 「『ファラオは生きた神』とか、『神に授けられた国王の権利』とか、『アフリカ原住民は生まれながらの奴隷』などといった言葉は、過去いかに不条理な人間観が時代を支配してきたかを如実に物語っている。しかし、人々は一般に、自らがその中に生きている時代の人間観に対しては、驚くほど批判を持たない」と。
 斉藤 現代人が自明と思っている人間観が、じつは後世から見たら、大いにゆがんだものかもしれません。
 須田 問題は、博士が言う“現代の迷信”が、ことごとく人間を小さな存在に閉じ込める方向になっているということですね。
 たとえば「心」は宇宙にも広がり、三世にも広がっているものなのですが、現代人は、「心」は現在の小さな「脳」の中にあるものと思っています。
 遠藤 それは動執生疑させなければならない。そういう人間観がつくる社会は、どうしても荒廃した希望なき社会になるからです。
 池田 その動執生疑は、地涌の菩薩の「姿」で、「行動」で起こさせるのです。「声」で起こさせるのです。法華経でも、荘厳な事実の姿で、動執生疑を起こさせたように。
 ともあれ現代のわれわれにとって、地涌の出現とは、二十一世紀、二十二世紀、二十三世紀、そして万年の未来へと続く「地球革命」への船出のファンファーレととらえたい。
 大聖人は、門下にこう呼びかけてくださっている。
 『すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか』(御書1300頁)と。
 断じて嘆くな! 大悪があるから大善がくるのだ。上行菩薩が、大地から踊って出てきたように、楽しく勇んで、舞を舞いながら、前進していきなさい、と。
 民衆の大地から踊り出る「勢い」こそ、私ども地涌の菩薩の身上なのです


法華経の智慧 従地涌出品 第十五章