〈鎌倉時代をつまみ読みっ!〉第1回 武士は裁判好き⁉2024年5月10日

     新連載「鎌倉時代をつまみ読みっ!」では、歴史をかいつまみつつ、鎌倉時代の魅力に迫ります。第1回は、「武士は裁判好き⁉」。どうやら鎌倉市に、当時の裁判の雰囲気が垣間見える石碑があるようですよ。鎌倉時代にあこがれる、令和生まれの「ネコたま殿」と一緒に早速、足を運んでみましょう。いざ、鎌倉時代!

    「ここからここは、オレのもの!」 所領を巡って大騒ぎ

     「鎌倉時代」と聞くと、どのようなイメージが浮かびますか?
     源頼朝が鎌倉に政権を樹立してから、元弘3年(1333年)に幕府が滅びるまでの約150年。武士が台頭し、人々の暮らしや文化・思想の発展にも大きな変化があった鎌倉時代は、知れば知るほど、実に興味深いことばかりです。
          ◇
     “古都の風情”や、豊かな自然を求め、今日も鎌倉駅は国内外からの多くの観光客でにぎわっています。
     西口から今小路に出て、由比ケ浜へ向かって歩くと、3分ほどでT字交差点の一角に。左手にお目当ての石碑が現れました。
     ここは、かつての問注所、つまり現在でいう裁判所の跡地とされる場所。碑文によれば、もともと初代将軍・源頼朝が幕府の建物の軒先を問注所としていたものの、後にこの場所に移転したとのこと。その理由は「多くの人々が集まり、騒がしかった」から。
     えっ? 当時の裁判所って、人が群がってくるような“人気スポット”だったのでしょうか――。
     鎌倉時代、何より重視されていたのは「所領」(土地や家屋)です。
     人々は収入源となる所領を奪い合いました。当然、小競り合いが各地で頻発。「訴訟をしよう。そうしよう!」なんて合言葉があったかどうかは分かりませんが、ヒートアップした問題は、幕府まで持ち込まれました。
     そう、鎌倉時代は「訴訟の時代」ともいわれるほど、裁判が盛んだったのです。武士が本当に好きなのは裁判ではなく、所領だったんですね。
     そこで頼朝は、口頭弁論の場として問注所を設置。双方に意見を出させ、自らが判決を下しました。
     しかし、出頭する者の多くは血気盛んな武士たち。歴史書『吾妻鏡』〈注1〉によれば、所領の境界を巡る裁判では、頼朝から何度も不審げに質問された出頭者が、「もうどうしようもない!」と憤り、束ねた髪を自ら刀で切り落として行方をくらませる騒ぎまで起こったとあります。
     時には言い合いから、刃傷沙汰に発展するような物騒なこともあったのでしょう。
     「やかましい!」――時の権力者が辟易し、問注所を“引っ越し”することになったといわれるのもうなずけます。

    鎌倉時代の「問注所」跡地に立つ石碑

    鎌倉時代の「問注所」跡地に立つ石碑

    問注所跡地の石碑近くの橋には、問注所での裁判にまつわる「裁許橋」という名が残っている

    問注所跡地の石碑近くの橋には、問注所での裁判にまつわる「裁許橋」という名が残っている

    「誰かルールを決めてくれ……」 御成敗式目はじめました

     現代に「六法全書」などがあるように、裁判には公平な基準の存在が不可欠です。鎌倉時代では、どうだったのでしょうか。
     承久3年(1221年)の「承久の乱」〈注2〉以降、訴訟の数が激増する中で、幕府の第3代執権である北条泰時によって貞永元年(1232年)に制定されたのが「御成敗式目」です。
     かつて、“私がルールブックだ!”と言わんばかりに存在感のあった頼朝は、もう世を去っています。頼朝の時代の先例や、武家社会で重んじられた「道理」をもとにした式目は51箇条からなり、訴訟に基準を設ける狙いがありました。貴族の間で使われていた「公家法」とは別に、武家のための法律が初めて制定されたのです。
     「濫りな訴訟の原因を無くすため」に、式目が作られたと『吾妻鏡』には記されています。
     押し寄せる訴訟また訴訟。幕府はどうにか負担を減らしたかったんですね。「毎日毎日、オーバーワークだよ」なんて、役人の悲鳴が聞こえてくるようです。
     制定から1年と経たないうちに、訴訟の当事者が条文を持ち出して法廷闘争を繰り広げていた史料が残っているほど、式目はスムーズに人々に浸透していったようです。
     その背景として、当時の大飢饉の影響も見逃せません。目を覆うような惨状の中、社会も変化を求められていたのでしょう。
     御成敗式目にはこう書いてあるじゃないか!――新たな社会の建設へ、人々が自らの主張や、取り決めを行うためのツールとしての役割を式目が果たしていたという見方も近年、出てきました。
     「みんな注目! 式目に注目!」と、御成敗式目は社会に広がっていったんですね。

     〈注1〉鎌倉幕府による公式の歴史書。鎌倉時代後期に編さんされたとされる。将軍ごとの編年体で記されている。
     〈注2〉朝廷と幕府が争った内乱のこと。幕府が勝利を収め、朝廷側の多くの所領を没収したことで、所領を巡る紛争が激増した。
     【参考文献】田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』(戎光祥出版)。佐藤雄基著『御成敗式目』(中公新書)。坂井孝一著『源頼朝と鎌倉』(吉川弘文館)、同『承久の乱』(中公新書)。五味文彦他編『現代語訳 吾妻鏡』第5巻、第10巻(吉川弘文館)

    その時、日蓮大聖人は――

     独善的、排他的に自らの信仰の正しさを主張し抜いた――鎌倉時代について少し調べると、日蓮大聖人についてそのような印象を受けるかもしれません。しかし、実際はどうだったのでしょうか。
     文永5年(1268年)10月、大聖人は、平左衛門尉頼綱に対し「御成敗式目を見ても、道理にもとづかないことを制止するのは明らかである。どうして日蓮の愁いの訴えをお取り上げにならないのでしょうか」〈※1〉とつづられました。
     これは、大聖人が仏典に則して予言した国難が、現実のものとなって迫ってきているにもかかわらず、受け入れられないことを主張されたものです。式目が重視していたとされる「道理」を、大聖人も意識されていたことが伝わってきます。
     建治3年(1277年)のお手紙には、「御式目を見ると、五十一箇条を立てて最後に起請文を書き載せている」〈※2〉と記され、式目を通読されていたことが分かります。
     当時の法律に通じながら、社会の安穏を願い、仏法を流布されていたことが伝わってきます。日蓮大聖人は常識豊かに、「仏法即社会」の実践を貫かれていたのです。
     
     〈※1〉御書新版857ページ・御書全集171ページ(通解)
     〈※2〉御書新版290ページ・御書全集356ページ(通解)