〈英知の光源 希望のてつに学ぶ〉 テーマ:さつ
 れんさい「英知のこうげん 希望のてつに学ぶ」では、仏法理解を深めるためのかぎとなる教学用語や法理を解説。また、関連する池田先生の指導をけいさいします。今回は「さつ」をテーマに、創価学会員の使命について考察します。

池田先生の指導から

 今、世界中で学会員が、「われさつなり」と立ち上がってくれています。地涌の勇者のまいが世界を包み、人々を希望の光で照らす時代になりました。創価学会によって、法華経に記された「地涌の菩薩」の絵巻が現実のものとなり、全地球に広がったと言えるのです。(中略) 人は、「使命」を自覚した時に、自身のないおうちからげんさせることができます。「使命」の道に生きく時に、あらゆるなんえる、退たいにんにくの力がみ上げてきます。「使命」をたし抜く人生はほがらかであり、さわやかです。一点のいもなく、けた青空のごとき王者のきょうがいいたります。 その「じょうの使命」こそ、地涌のだいがんの人生です。地涌の生命を燃焼している人は、無上の幸福を築いているのです。(中略) 広宣流布とは、人類のみょうを打ち破り、宿しゅくめいてんかんしゆくだいな未聞の精神とうそうです。この大確信にむねを張り、ふうどうどうと進んでいきましょう。(2023年8月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)

Q1:妙法つうになう使命――法華経では どのように説かれていますか?

 法華経では、ほっほん第10こう、“しゃくそんめつきょうだれたくすのか”が大きなテーマになります。そのハイライトの一つが、じゅうじゅっぽん第15でげきてきえがかれる、さつの出現でしょう。 まず、かんほん第13では、声聞らが、のううずしゃかいけて他の国土でつうすることを望んだのに対して、菩薩たちはなんえてきょうはげむことをせいがんします。さらに、涌出品のぼうとうで、じっぽう世界(ぜんちゅう)からつどってきた菩薩たちが、釈尊滅後に娑婆世界で妙法を弘めることをちかいます。 釈尊は、この菩薩たちに滅後の弘通を託すにちがいない――そうだれもが思うような場面で、釈尊が放った一言はしょうげきてきでした。 「みね。ぜんなんよ」(法華経451ページ)。あなたたちが法をする必要はない、と。 そして釈尊は、“この娑婆世界にいるぼうだいな数の菩薩たちが、滅後の弘通をになうのだ”とせんげんします。 その時、しんれつした大地からおどてきたのが、じょうぎょうへんぎょうじょうぎょうあんりゅうぎょうの四菩薩をリーダーとする、無数の地涌の菩薩たちです。それぞれがこんじきかがやりっ姿すがたで、六万ごうしゃという数え切れないほどのけんぞく(仲間)を率いてじゅつしました。 にいたろく菩薩は思わず釈尊に問います。「これらの見たこともない大菩薩たちは、一体どこから来て、どのようないんねんで集まったのでしょうか」 この「弥勒のしょう」を受けて、釈尊が明かしたえんは、“実はおんの昔から、これら地涌の菩薩たちをきょうしてきた”ということ。それは弥勒をはじめとする会座にいたちょうしゅうにとって、非常におどろくべきことでした。

Q2:おんの昔からきょうしてきたことが なぜおどろくべきことなのでしょうか。

 なぜなら、会座の人々はそれまで、“釈尊は今世において出家し、だいじゅの下で初めてさとりを開いた”と信じていたからです。この「じょうしょうがく」の立場にあったからこそ、釈尊が覚りを開いてからのわずかな期間で、無量無数の大菩薩たちを教化してきたとは、とうてい、信じられなかったのです。 浅い教えにしゅうちゃくしている心がどうようし、うたがいが生じる。この驚きを「どうしゅうしょう」といいます。 “これまで師・釈尊が示した教えの真意は”“師の本当のきょうがいとは”――。ねんが深まる弟子を前に、釈尊は、さらにきょうがくの真実を明かします。それが、涌出品に続くにょらい寿じゅりょうほん第16での説法です。 “私は久遠の昔に成仏して以来、常に娑婆世界で人々を教化してきたのだ”。いわば、「おんじつじょう」の不可思議な姿すがたをもって、仏の生命が永遠じょうじゅうであることを明かしたのです。この久遠の仏とともに、しゅじょうきゅうさいに戦いいてきたのが地涌の菩薩です。 寿量品の最後で釈尊は、“常に、そして永遠に人々を救っていきたい”という、久遠の仏としての願いを示しました。このの大願について、日蓮大聖人は「『まいねん』のがん」(新516・全466)とおおせになっています。 せいくんには、地涌の菩薩について「この菩薩はほんぽうしょの人なり。本法とは、南無妙法蓮華経なり」(新1047・全751)とあります。 まさに、法華経本門のかんじんたるほんげんの法、すなわち妙法をたもち、末法の万人救済という、久遠の仏の大願をわがちかいとして出現した本門の真正の弟子こそ、地涌の菩薩なのです。

Q3:久遠の昔から仏の真正の弟子として 戦い続けてきたのですね。

 日蓮大聖人が「よくよく心をきたえられた菩薩なのであろう」(新1608・全1186、通解)と仰せのように、地涌の菩薩は、はるか久遠の昔から妙法を修行して鍛え抜かれているからこそ、あくでのだいなんに打ち勝ち、妙法を弘通していけるのです。 涌出品では、地涌の菩薩のえい姿をこう示します。「ねんけん」(法華経459ページ)、「なんもんどうたくみ」「の心におそるるところ無く」「にんにくの心はけつじょう」(同472ページ)――固い決意をつらぬく人であり、と確信あふれる対話の達人であり、おそれなき勇気と、くつにんたいりょくがある人である、と。 とりわけ、のううずく現実社会の中で妙法を弘め、人々を救う清らかな姿は「れんの水にるがごとし」(同471ページ)と、どろみずにあっても泥にまらずうるわしくく、蓮華にしょうちょうしています。 法華経に示されたほまれの姿さながらに、末法広布の地涌の使命に生き抜いているのが、私たち創価学会員です。 「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(新1790・全1359)とされた大聖人に直結し、人類救済に立ち上がった創価三代の師弟に続いて、日本中、世界中で妙法を語り広げてきた創価の連帯こそ、ぶつぶっちょくの地涌の教団にほかなりません。 御聖訓には「『だいがん』とは、ほっつうなり」(新1027・全736)とあります。広宣流布こそ、末法の御本仏・日蓮大聖人の大願です。それはまた、創価の師弟のだいせいがんでもあります。 地涌の菩薩――それは、師の誓いをわが誓いとし、最も大変な時代・社会で妙法を弘め、苦難にあえぐ人々に真の幸福を築くちからひらかせるという、無上の使命に生きる勇者のみょうなのです。