〈記念特集〉 永遠の原点「5・3」に刻まれた創価の歴史2024年5月3日

  • がんじょの五月三日から希望にえて正義のを!

“青年会長”の誕生に歓喜が爆発――1960年5月3日、32歳の池田先生が第3代会長に就任。祝賀会終了後、青年たちが駆け寄り、先生を胴上げした(東京・墨田区の日大講堂〈当時〉で)

“青年会長”の誕生に歓喜が爆発――1960年5月3日、32歳の池田先生が第3代会長に就任。祝賀会終了後、青年たちが駆け寄り、先生を胴上げした(東京・墨田区の日大講堂〈当時〉で)

 池田大作先生は、つづった。
 「五月三日には、『ちかい』があり『じっせん』がある。『団結』があり『ほうおん』がある。『希望』があり『勝利』がある。『出発』があり『前進』がある。ねんねんさいさい、広宣流布への決意を強め深めゆく日こそ『5・3』なのだ」と。
 創価学会は、めぐる5月3日を前進のふしに、かいしゅうきょうへとやくげた。ここでは5・3「創価学会の日」「創価学会母の日」にきざまれたおもな広布史をしょうかいする。
 ◇◆◇
 「5・3」の原点――。それは1951年(昭和26年)の戸田城聖先生の第2代会長しゅうにんである。初代会長の牧口常三郎先生のじゅんきょうから6年以上が経過していた。
 戦時中、牧口先生が軍部けんりょくたいされた時、多くの牧口門下がっていく中で、戸田先生は最後までごくちゅうとうそうつらぬいた。生きてろうごくを出た戸田先生は、牧口先生の正義をせんようする“あだち”を誓い、戦後の焼け野原に一人立って、学会の再建を開始する。
 だが50年(同25年)、事業がきょうおちいり、学会の理事長をにんきゅうに追いまれた戸田先生を、池田先生がささえた。
 給料のはいは、何カ月も続いた。真冬でもかいきんシャツ一枚で過ごした。げんかんくつげなくなるほど、つかてるまで働いた。
 師弟一体のとうにより、たいじょじょに好転。戸田先生の会長就任の日をむかえる。
 池田先生はじゅっかいしている。「それは、(戸田)先生につかえきった私の勝利の日であった」と。

第1回北海道体育大会「若人の祭典」での戸田先生と池田先生。恩師が5月3日の会長就任式で掲げた「75万世帯」の達成へ、弟子は常に先頭に立った(1957年8月、札幌・美香保グラウンド〈当時〉で)。※モノクロ(白黒)写真を、デジタル技術を使ってカラー化した

第1回北海道体育大会「若人の祭典」での戸田先生と池田先生。恩師が5月3日の会長就任式で掲げた「75万世帯」の達成へ、弟子は常に先頭に立った(1957年8月、札幌・美香保グラウンド〈当時〉で)。※モノクロ(白黒)写真を、デジタル技術を使ってカラー化した

 戸田先生がせいきょして2年後となる60年(同35年)5月3日、広宣流布のだいせいがんぎ、池田先生が第3代会長に就任。4年後の恩師の七かいまでに、300万世帯をげようとうったえた。
 このに同志の心はえ上がり、とうの前進を開始。62年(同37年)11月、早くも300万世帯が達成される。
 池田先生のちからづよいリーダーシップで広布の勢いは大きく加速し、今、創価の連帯は世界192カ国・地域に広がった。
 池田先生はびかけた。「さあ、がんじょの五月三日から、おおいなる希望に燃えて、正義の師子吼をとどろかせゆくのだ。今ふたたび、たいどうしんの団結で、新たな一歩前進を開始しよう!」
 5月3日とは、しょうとの誓いに立ち返る「永遠の原点の日」であり、新たな広布のみねへ決然と出発する日である。
 

【1951年】戸田先生が第2代会長に就任

会長就任式で話す戸田先生

会長就任式で話す戸田先生

 1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖先生が第2代会長にしゅうにん。生涯のがんぎょうとして「75万世帯のきょう」をせんげんし、学会の大前進が始まった。
 だが、ここまでの道はこくきわめた。戦後のけいざいこんらんは戸田先生の事業に大きなげきを与えた。新たに着手した信用組合もあんしょうに乗り上げ、50年(同25年)8月に業務停止に。責任のきゅうねんした戸田先生は、学会の理事長をにんする――。そのきょうの師をささえたのが若き池田先生だった。社員が次々とる中、戸田先生の会社に残り、ぐんふんとうした。“さいすべて返し、先生に会長になっていただくのだ!”と心に決めた。
 目標は5月3日。戦時中、創価教育学会の最後の総会が43年の5月2日に行われたことから、その“次の日”を、新生・創価学会の出発に――そういのりを定めた、と池田先生は語ったことがある。
 そして51年3月、信用組合が解散。戸田先生の会長就任への道が開かれたのである。

【1958年】池田先生が「七つのかね」の構想を発表

世界広布は青年の熱と力で!――師弟の誓いに燃えて、対話拡大に率先する友

世界広布は青年の熱と力で!――師弟の誓いに燃えて、対話拡大に率先する友

 1958年(昭和33年)4月2日、第2代会長・戸田先生がせいきょ。一部のマスコミは、指導者を失った学会は“空中分解”するとちゅうしょうした。
 そうした中、悲しみにしずむ同志へ新たな希望を送ろうと、当時、青年部の室長だった池田先生は、5月3日の春季総会で「七つのかね」構想を発表した。これは戸田先生が生前、“学会はそうりつ以来、7年ごとに大きな前進のふしきざんできた”と語っていたことからちゃくそうしたものであった。
 そうだいな未来への指標に同志のむねおどった。
 その後、「第五の鐘」の目標である会員300万世帯を達成。「第六の鐘」で750万世帯をえ、「第七の鐘」がり終わる79年(同54年)までに、日本の広宣流布のばんが確立されていく。

【1960年】池田先生が第3代会長に就任

会長就任式に臨む池田先生の胸に、香峯子夫人が「會長」の胸章を挿す

会長就任式に臨む池田先生の胸に、香峯子夫人が「會長」の胸章を挿す

 恩師のせいきょ、総務としてほんそうする池田先生に正式な会長しゅうにんようせいがあったのは、1960年(昭和35年)3月30日であった。先生は大阪事件のさいばんが続いていたことなどから一度はそれをするも、理事たちの再三の要請に、ついにじゅだく。同年4月19日、きんきゅうの全国代表幹部会で、先生の会長すいたいが伝えられ、会場はかんつつまれた。
 晴れ渡る5月3日、東京・すみ区の日大講堂で第3代会長就任式がきょこうされ、だんじょうに立った池田先生はちからづよした。「じゃくはいではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、の広宣流布を目指し、一歩前進へのらせていただきます!」
 先生は就任5カ月後に、北南米をほうもん。師からたくされた世界広布へ第一歩をしるす。

創価の人間主義の連帯は今や、192カ国・地域に広がる

創価の人間主義の連帯は今や、192カ国・地域に広がる

【1969年】創価大学に建学の精神を示す

豊かな自然に囲まれた創価大学のキャンパス(東京・八王子市)

豊かな自然に囲まれた創価大学のキャンパス(東京・八王子市)

 1969年(昭和44年)5月3日の本部総会で池田先生は、深刻な社会問題となっていた大学ふんそうれ、新時代の大学像についてげんきゅうした。
 建設が進む創価大学の基本理念として「人間教育の最高がくたれ」「新しき大文化建設のようらんたれ」「人類の平和を守るフォートレス(ようさい)たれ」とのモットーを発表。あわせて、学内運営における学生参加の原則や通信教育などのてんぼうも示した。
 創大はこの建学の精神をかかげ、71年(同46年)4月2日、東京・八王子市に開学。69カ国・地域、260大学(3月末現在)と交流を結ぶなど、五大陸から学生がつどる“世界市民の学びや”へとはってんげている。

【1970年】「広宣流布は流れそれ自体」と明言

師から託された広布後継のバトンを握りしめ、朗らかに前進する宝の未来部

師から託された広布後継のバトンを握りしめ、朗らかに前進する宝の未来部

 750万世帯を達成してむかえた1970年(昭和45年)5月3日、会長しゅうにん10周年をきざむ本部総会がひらかれた。
 池田先生はたる21世紀をてんぼうし、広宣流布は「流れのとうたつてんではなく、流れそれ自体」であり、“妙法の大地にてんかいする大文化運動”であるとの広宣流布観を示した。続いて、学会と公明党の関係についてれ、組織的にそうほうを明確にぶんすることを表明。さらに、仏法の人間主義の思想を調ちょうとした社会建設の重要性を強調した。
 また学会の組織けいたいを、しょうかいしゃと新入会者のつながりで構成されるじゅうらいの「タテ線」から、地域をばんとする「ヨコ線」へ移行すると発表した。

【1979年】神奈川で「共戦」とごう、5日には「正義」と

2009年4月に行われた全国代表協議会の席上、1979年5月3日に大書した「共戦」の書を初めて披露する池田先生。「真実の同志――それは、私と心一つに、広宣流布へ戦う皆様方である」「未来に生きる皆さんは、私との『共戦』の人生を歩み抜いてほしい」と訴えた(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

2009年4月に行われた全国代表協議会の席上、1979年5月3日に大書した「共戦」の書を初めて披露する池田先生。「真実の同志――それは、私と心一つに、広宣流布へ戦う皆様方である」「未来に生きる皆さんは、私との『共戦』の人生を歩み抜いてほしい」と訴えた(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

 第1次しゅうもん事件のちゅうだった1979年(昭和54年)4月24日。池田先生は、しゅうもんあくそうらによるじんこうげきから大切な会員を守るため、一切の責任をって第3代会長をにんした。
 そして5月3日、創価大学での本部総会に出席。これが実質的な“会長辞任式”となった。終了後、先生は神奈川文化会館へ。「共戦」とごうし、わきがきしるした。「しょうがいにわたり われ広布を どうの心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ がっしょう」と。2日後の5日には「正義」とふでを走らせ、脇書に「われ一人正義のはた持つなり」と書きとどめた。
 こうねん、この時のしんじょうをつづっている。“私はだんじて戦う。たった一人になっても。師弟の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布のだいどうを進みくことだ!” 

【1980年】関西の地で「五月三日」と大書

子どもたちを励ます池田先生(1980年5月3日、関西文化会館で)

子どもたちを励ます池田先生(1980年5月3日、関西文化会館で)

 会長にんから1年後の1980年(昭和55年)、池田先生は関西の地で5月3日をむかえた。大阪市の関西文化会館でひらかれた「5・3」記念の勤行会に出席。愛する同志をきかかえるようにはげました。また、ずいしょで友と記念さつえいし、かたあくしゅわした。
 その日の夜、先生は大阪・豊中市で「五月三日」とたいしょした。わきがきには、戸田先生の第2代会長しゅうにんの「昭和二十六年」、池田先生の第3代会長就任の「昭和三十五年」など学会のふしとなる「五月三日」をれっ。さらに「昭和五十八年」「西せいれき二〇〇一年」と、“未来の五月三日”をしたためた。これには、“この時を目標に、必ず新たな創価学会のだいはってんの流れを!”とのちかいがめられていた。
 そして5月3日について、「の日は わが学会の原点なり」と書きとどめ、“反転こうせい”への助走を開始した。

【1988年】初の「創価学会母の日」を記念する式典

1988年4月27日の第1回全国婦人部幹部会で、広布に生き抜く創価の女性をたたえ、池田先生が“5月3日を「創価学会母の日」に”と提案した(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

1988年4月27日の第1回全国婦人部幹部会で、広布に生き抜く創価の女性をたたえ、池田先生が“5月3日を「創価学会母の日」に”と提案した(東京・信濃町の創価文化会館〈当時〉で)

 1988年(昭和63年)4月27日、東京・信濃町での第1回全国婦人部幹部会に出席した池田先生は、学会の重要なふしである5月3日を、“婦人部(当時)を最大にたたえ、けんしょうする日としてはどうか”と提案。「創価学会母の日」が制定された。
 同年5月3日にかいさいされた「5・3」の記念式典。先生は初めてむかえた「創価学会母の日」を心からしゅくふくし、「広布のため、日夜、きょうほんそうされているみなさまがたこそ、りょうどくまんきつしゆく“さちの王者”であってほしい。むねを張ってかっしゆく“人生の勝者”であってほしい」とびかけた。
 以来36せいそう。「5月3日」は、広布にふんとうする全世界の“母”に感謝し、たたえる日となっている。

【2001年】アメリカ創価大学が開学 

オレンジ郡アリソビエホ市の丘に広がるアメリカ創価大学のキャンパス

オレンジ郡アリソビエホ市の丘に広がるアメリカ創価大学のキャンパス

 2001年(平成13年)5月3日、米カリフォルニア州オレンジぐんアリソビエホ市にアメリカ創価大学(SUA)が開学した。それは、戸田先生が第2代会長にしゅうにんして50周年となる日だった。
 創立者の池田先生は開学式にメッセージをおくり、しゅくふく。「私はみなさまがたに、けております。未来の一切をたくしております」と期待を寄せた。
 はばひろい教養と人間性をはぐくむリベラルアーツ(いっぱん教養)の大学としてスタートしたSUA。卒業生は1700人をえ、名門大学の大学院への進学をはじめ、ほうそうや教育などさいたいかつやくする。
 そして今、創価の学びやは世界7カ国に広がる。マレーシアでは本年、創価インターナショナルスクール・マレーシアが開校。創価教育の光が人類の未来を明るくらす。

【2021年】平和の世紀の太陽「女性部」が発足

創価の太陽・女性部。幸のスクラムを広げ、地域や社会に希望を送る

創価の太陽・女性部。幸のスクラムを広げ、地域や社会に希望を送る

 2021年5月3日、婦人部・女子部結成70年の歴史をしょうして、「女性部」がほっそくした。これは女性の社会進出、ライフスタイルや価値観の多様化という時代の変化をまえつつ、一人一人がちからはっし、永遠に広布の「未来のもん」をひらくためのもの。
 池田先生は、その新出発をしゅくし、「安心して、いよいよ明るくほこり高く、いよいよ仲良くほがらかに、世界第一の『おうばいとう』のスクラムを組んで、『女性の希望の世紀』すなわち『生命そんげんびょうどうそして平和の世紀』をつくり光らせていってください」と限りない期待を寄せた。
 きょうで結成から3周年。今月、女性部総会が列島各地で行われる。同部の友は、平和の世紀を開きゆくちかいにえ、使命の道をけゆく。