〈英知の光源 希望の哲理に学ぶ〉 テーマ:万人に開かれた唱題行

 連載「英知の光源 希望の哲理に学ぶ」では、仏法理解を深めるための鍵となる教学用語や法理を解説。また、関連する池田先生の指導を掲載します。今回は「万人に開かれた唱題行」がテーマ。日蓮仏法における万人成仏の実践法を学びます。

池田先生の指導から

 (日蓮大聖人が仰せの通りに)ひたぶるな唱題で「仏になる道」を厳然と歩み抜いている団体は、創価学会以外にありません。「題目第一」「御本尊根本」の信心は、学会の中に脈動しています。
 創価学会によって、「末法一万年の衆生まで成仏せしむる」(全720・新1004)との仰せを実現しゆく人類の究極の希望の大道が開かれました。(中略)
 唱題を根本に、自行化他の信仰の実践を貫く人は、誰もが、仏と同じ師子王の境涯を開き、自他共の幸福を広げながら、胸中に大智慧力と大慈悲心を揺るぎなく築くことができます。
 今こそ、「妙とは蘇生の義」なりと、変毒為薬の功力を実証する唱題を!
 今こそ、「大悪起これば大善来たる」の原理を証明していく唱題を!
 今こそ、わが国土を仏国土に変革しゆく「立正安国」の唱題を!
 我ら創価学会は、妙法の音声を朗々と響かせながら、精神界の王者として、社会的使命を一段と果たしつつ、凱歌の創立百周年へ、勇躍、前進していきたい。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第8巻)

Q1:南無妙法蓮華経と唱える実践を 成仏の修行とするのはなぜですか。

 南無妙法蓮華経の唱題行――それは、末法のあらゆる衆生が内なる仏の生命を開き顕し、幸福境涯を得ていくために、日蓮大聖人が創唱した仏道修行です。
 紀元前に生まれたインドの釈尊は、人々の苦悩の解決法を探究した末に、自らの内に具わる宇宙と生命を貫く根源の法、すなわち妙法に目覚めました。釈尊の教えは後世、さまざまな経典にまとまりますが、その精髄こそ、一切衆生が成仏できる妙法を説き明かした法華経です。この経典がインドから中国へと伝わる中、最も正確に漢訳されて普及したものが、5世紀初頭の訳経僧・鳩摩羅什が翻訳した「妙法蓮華経」です。
 中国の天台大師や、日本の伝教大師は、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにし、法華経に基づく実践を広めました。さまざまな文化土壌の中で発展的に継承された法華経の思想と実践は、やがて、末法の一切衆生を救済する日蓮大聖人の仏法として結実します。
 天台大師は、法華経の法理を基に瞑想して、自身の心を見つめて内なる仏界にたどり着くという、観念観法の修行法を説きました。ただし現実には、種々の修行段階があり、優れた能力と大変な努力を要するため、誰もが実践できるものではありません。まして末法は、迷いや苦しみの衆生が充満している時代です。
 そこで大聖人は、末法において誰もが実践して成仏できる、万人に開かれた観心の修行法を探究されます。その帰結が、南無妙法蓮華経を唱えることで、いつでも、どこでも、誰であれ、自らの胸中に仏の生命を開いていける唱題行の確立です。

Q2:日蓮大聖人は万人に開かれた修行法を どのように探究されたのですか。

 若き日の日蓮大聖人が修学を開始されたのは、安房国(千葉県南部)の清澄寺です。同寺では、法華経信仰と併せて密教儀礼や浄土信仰も行う、中世の天台宗の教えを受け入れていました。さらに当時は、法然が唱えた専修念仏も広まっており、大聖人の旧師・道善房も念仏の修行を実践していました。
 そうした環境で修学に励まれた大聖人は、後に鎌倉や畿内各地に遊学。あらゆる宗派の教学を研さんし、苦悩の民衆を救いうる方途を真剣に探究する中で、仏の真意が説かれた最勝の経典は法華経である、と結論されます。
 そして、南無妙法蓮華経こそが法華経の肝心であり、成仏の種(仏種)であると覚知された大聖人は、「仏になる道には、我慢・偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり」(新704・全557)と仰せのように、南無妙法蓮華経の唱題行を自ら実践し、具体的な成仏の振る舞いを体現しながら、他の人々にも勧めていかれました。
 「観心本尊抄」には、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(新134・全246)とあります。
 妙法を受持し、自行化他の題目を実践する中で、成仏の原因も結果も全て譲り与えられる――人々が仏の生命を開いて幸福になる実践が、南無妙法蓮華経の唱題行に凝縮されるとの大聖人の御確信は、竜の口の法難佐渡流罪という命に及ぶ大難の中で、ますます深まっていったのです。

Q3:妙法を受持して唱題に励むことが 幸福境涯を開く肝要なのですね。

 日蓮大聖人は「法華初心成仏抄」の中で、題目を一度でも唱えるならば、あらゆる仏の覚りの法と、あらゆる衆生の仏性を呼び出すことができ、功徳は無量無辺であると仰せです。
 誰人の生命にも、仏性が元来、具わっている。それは悪世末法に生きる凡夫にとって、最も「難信難解(信じがたく理解しがたい)」の真理でしょう。そこで大聖人は、自らの生命に覚知した妙法、すなわち仏の生命境涯を、そのまま御本尊として顕されました。
 池田先生は、「仏が顕した南無妙法蓮華経の御本尊を明鏡として、わが己心の御本尊を深く確信し、自行化他にわたって南無妙法蓮華経を唱えれば、妙法蓮華経と妙法蓮華経が共鳴しあって、自身が仏界と現れる」と語っています。
 仏界とは、いかなる苦難にも負けない不屈の生命力であり、価値創造の活力です。
 この仏界を開く題目を、自らが唱えるだけではなく、仏界が涌現する歓喜を語り広げながら、他の人々にも題目を唱えさせていく。自他共の境涯を開く広布の実践こそ、かけがえのない「今生人界の思い出」(新519・全467)となって生命に刻まれます。
 変化の速度が増す現代。社会の流動性や不確実性が高まり、生活基盤などが揺らぐ中で、ともすれば、未来への確かな希望も見失われがちです。
 だからこそ、“題目を唱える人に行き詰まりはない!”との確信で祈り、自他共の幸福に尽くす創価の友のはつらつとした姿は、地域・社会で希望と輝いていくでしょう。
 さあ、今日も題目を朗々と唱え、縁する友に励ましを送りながら、今いる場所で幸の連帯を広げていきましょう。