〈師子の光彩 大願を果たさん〉第6回 5・3「創価学会の日」2024年5月1日

「日本晴れだ。創価学会の前途は万々歳だ!」――1960年5月3日の会長就任式。池田先生が、2万人の同志が集った日大講堂で、掲げられた恩師の遺影を仰ぐ。“広宣流布の一歩前進”を師子吼した

「日本晴れだ。創価学会の前途は万々歳だ!」――1960年5月3日の会長就任式。池田先生が、2万人の同志が集った日大講堂で、掲げられた恩師の遺影を仰ぐ。“広宣流布の一歩前進”を師子吼した

生死をえ、今世の一生の法戦はじ

 前日までの雨はやみ、同志の喜びをうつすかのように、“5月の青空”が広がった。1960年(昭和35年)5月3日、東京・墨田区の日大講堂で、創価学会の第3代会長しゅうにん式となる第22回春季総会がせいだいに行われた。
 池田大作先生は黒のモーニングを身にまとっていた。戸田城聖先生の形見である。会場にとうちゃくすると、香峯子夫人が、「かいちょう」と書かれたきっきょうしょうむねした。
 正午、開会がせんげんされる。音楽隊による学会歌のえんそうとどろく中、池田先生は入場した。ちゅう、歩みを止め、前方に高々とかかげられた戸田先生のえいを見上げた。その時のちかいを、先生はしるしている。
 「“断じてれ”――恩師の声を胸にひびかせ、世界広宣流布の一歩前進へ、『ちかいしねがいやぶるべからず』(全232・新114)とかくを定めた」
 午後1時半、だんじょうに立った先生は、「じゃくはいではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」とちからづよく第一声をはなった。
 第2代会長・戸田先生のせいきょから2年――。「ゆらぐ創価学会のたいぼね」などと一部のマスコミがさわぐ中、広布の前進を支えてきたのは、池田先生だった。
 58年(同33年)5月3日、戸田先生の逝去後、初めて行われた春季総会。その場で、池田先生は「七つのかね」の構想を発表する。学会がそうりつから7年ごとにはってんふしきざんできた歴史をまえ、7年を一つの区切りにして前進していくことを示したものである。「七つのかね」の構想は、同志のきょうちゅうに希望のをともした。

第3代会長就任50周年を祝賀する本部幹部会で池田先生は、「五月三日」の大書を初めて紹介した(2010年4月17日、東京牧口記念会館で)

第3代会長就任50周年を祝賀する本部幹部会で池田先生は、「五月三日」の大書を初めて紹介した(2010年4月17日、東京牧口記念会館で)

 
晴れ晴れと大勝利せんげん

 第3代会長しゅうにん式で、池田先生は、恩師の七かいまでに300万世帯の達成をかかげた。
 就任式に続いて行われた祝賀会がまくじ、池田先生は退場しようとした。その時、青年たちがかんせいを上げながら、先生のもとにっていった。
 「万歳! 万歳!」
 どうげが始まった。先生の体は何度もちゅうった。この日、先生は日記につづった。
 「恩師の喜び、目にかぶ。しゅくぜんたり。生死をえ、今世の一生の法戦はじむ。わが友、わが学会員、心から喜んでくれる。しょうらしく、人間らしく、青年らしく、断じて広布のを」
 32歳の青年会長を中心に、新たな前進が開始された。会長就任3カ月後には、1カ月で過去最高となる約6万7000世帯のきょうを達成。全国各地に、拡大の波動がとうの勢いで広がった。
 1961年(昭和36年)5月3日、本部総会が日大講堂でかいさいされた。会長就任からの1年で、支部数は61支部から139支部へとはってん。海外にも、ロサンゼルスとブラジルに支部が結成され、ホンコンには地区がたんじょうした。
 席上、先生は会長就任式で命にきざんだ「せんずるところは、天もすてたまえ、しょなんにもあえ、身命しんみょうとせん」(新114・全232)との「かいもくしょう」の一節をはいして語った。
 「今、そのせいくんを、もう一度、胸に刻んで、勝ってかぶとめて、親愛なるみなさまがたのご協力をたまわりながら、来年の5月3日をめざし、さらに、一歩前進のっていく決意でございます」
 よく62年(同37年)5月3日に日大講堂で行われた本部総会でも、「開目抄」の一節を通してうったえた。
 「来年の5月3日をめざし、三たび『せんずるところは、天もすて給え、しょなんにもあえ、身命を期とせん』との御金言を、さらに、さらに深く胸に刻んで、皆様方とともに戦い、勝利への指揮を執ってまいる決意でございます」
 「開目抄」は、日蓮大聖人がざいというだいなんの中でしたためた重書中の重書である。先生が三たびはいしたこのもんは、大聖人が真実の「法華経の行者」であることをせんげんされた、「開目抄」全編の中でもはくの一節である。
 初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長・戸田先生は、その御文に印を付け、しんどくした。第3代会長・池田先生も、このせいくんのままに、広宣流布にわが身をささげた。
 会長就任10周年となる70年(同45年)5月3日は、学会がはげしいなんにさらされたげんろん・出版問題のちゅうだった。
 この日、日大講堂で開かれた本部総会で、先生は「広宣流布は流れのとうたつ点ではなく流れそれ自体」であり、また「広宣流布とは“妙法の大地にてんかいする大文化運動”である」と定義づける。
 さらに、しょうかいしゃと新入会者というつながりを基調にしたじゅうらいの組織から、地域をばんとした組織への移行を発表する。
 言論・出版問題によって、多くのひょうろん家は、学会の「すい退たい」を予測した。だが、その予測をくつがえし、学会は大きくしょうしたのである。
 その後も「山に山をかさね、波に波をたたみ、なんに難を加え、非に非をますべし」(新72・全202)のだいなんが起こる。77年(同52年)ごろからは、しゅうもんあくりょらがしつように学会はんかえしていることが表面化し始めた。第1次しゅうもん事件である。
 80年(同55年)5月3日、先生は関西の地で、「五月三日」とぼっこんあざやかにしたためた。わきがきには、節目の5月3日が列記された。
 戸田先生が第2代会長に就任した「昭和二十六年」。池田先生ご夫妻がけっこんした「昭和二十七年」。先生が第3代会長に就任した「昭和三十五年」。会長を辞任した「昭和五十四年」。
 また、日蓮大聖人がおんとし32歳でりっしゅうせんげんされたことに思いをせ、戸田先生の第2代会長就任32周年となる「昭和五十八年」、そして「西せいれき二〇〇一年」とごう。さらに、5月3日について、「の日は わが学会の原点なり」と書きとどめた。
 この80年、先生は第1次宗門事件からの反転こうせいの助走を開始。功労者のほうもんげきれいや小説『人間革命』のれんさい再開など、同志の心に勇気の灯をともし続けた。先生のしゃくしんみょうとうそうによって、学会は第1次宗門事件のあらしえていった。
 「五月三日」の大書は、30年後の2010年(平成22年)4月、東京牧口記念会館でかいさいされた本部幹部会で、初めてろうされた。席上、先生は語った。
 「創価の三代の師弟は、すべてのだいなんを勝ちえてきた。ここに晴れ晴れと大勝利せんげんをしたい。これからも断固、勝ちまくっていこう!」
 師への限りない感謝をむねに、弟子が広布のせいがんに立ち上がる日――それが「5月3日」である。

 
モノクロ写真をカラー化

今回掲載されている第3代会長就任式のカットは、モノクロ(白黒)でしか見られなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。

第3代会長就任式に臨む池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)

第3代会長就任式に臨む池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)