地涌の菩薩(4)

 

<動執生疑(4)>

 

地涌の出現が人々に“仏陀観の大転換”を迫った
「自分とは何なのか」
万人を偉大なる自己へと導いていく

 

 斉藤 その大衆の驚きを代表して、弥勒菩薩が釈尊に質問します。「この無量の菩薩たちは、昔から今まで見たことがありません。世尊よ、どうかお話ください。彼らはどこから来たのでしょうか。何の因縁によって集まったのでしょうか」と。
 池田 有名な“弥勒の疑請(ぎしょう)”だね。この弥勒の“大いなる問い”が、釈尊が寿量品という真髄の教えを説くきっかけになっている。質問が大事です。
 斉藤 他方の国土から来た分身の諸仏に仕える侍者たちも、それぞれ自分の師である諸仏に弥勒と同じ質問をします。「地から涌き出た、この菩薩たちは、どこから来たのでしょうか」と。
 諸仏は侍者たちを、こう諭します。「しばらく待つがよい。あの弥勒菩薩は、釈尊に授記された弟子であり、釈尊に次いで、後に仏になる人である。仏は今、その弥勒の質問に答えられるであろう。よき聞いていなさい」
 池田 この表現もおもしろいね。釈尊に縁の深い菩薩や声聞たちのなかでも、弥勒が質問したことに深い意味がある。だから釈尊は、「すばらしい、すばらしい。弥勒よ、あなたは仏にそのような大事なことを質問した」とたたえた。
 斉藤 弥勒は一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩と言われ、釈尊の次に仏になるとされた菩薩です。釈尊の高弟の中の高弟です。その弥勒が質問したということは、迹門までの教えでは、未解決の大いなる問題が残されているということですね。
 池田 そう。一切衆生の中に仏の生命があることが分かって、成仏の記別を受けても、それだけではまだ不十分だったということです。
 寿量品の久遠実成(釈尊が久遠の昔に成道したこと)が明かされなければ、一切衆生の成仏の道は「絵に描いた餅」にすぎないからです。
 そのことは、くわしくは後に論じることにするが、ともかく釈尊の久遠の生命を明かすためには地涌の菩薩の出現が不可欠だった。弥勒の質問をきっかけとして、真実の教えが説かれていくわけです。
 すなわち釈尊は、諸仏の智慧、諸仏の自在神通の力、諸仏の獅子奮迅の力を顕しながら、いよいよ一番重要なことを説こうとする。
 須田 そして、釈尊の口から語り出された答えは、もっと驚くべきものでした。遠い昔から、この娑婆世界で自分が教化してきたのが、この地涌の菩薩だと明かしたからです。(中略)
 池田 大聖人は、『此の疑(うたがい)・第一の疑なるべし』(御書213頁)、『仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどう(同)じ一切衆生は疑網にかかるべし』(同頁)――仏がこの疑問を晴らされないならば、仏の一生の教えはアブクと同じであり、一切衆生は疑いの網にからまってしまうであろう――と述べられている。いわば一切衆生の成仏がかかった根本的な疑問です。
 須田 その驚きの内容ですが、まず、地涌の菩薩という、弥勒菩薩ですら見たことも聞いたこともない無量無数の菩薩たちが、涌出品で突如として大地の底から踊り出たということです。(中略)
 斉藤 しかも、その姿は、あろうことか、師である釈尊よりも立派です。にもかかわらず、釈尊にあいさつする彼らの態度は、じつに謙虚で恭(うやうや)しい。師への尊敬の心に、満ち満ちている。
 遠藤 その点、迹化の菩薩たちは師匠に対して、まだまだ尊敬の心が足りなかったのかもしれません。“馴れなれしい”といっては言いすぎでしょうが・・・。
 池田 弥勒は、釈尊の過去世の修行も知っている。また、法華経迹門で明かされた、万人が成仏できるという道理も熟知している大賢者です。その弥勒が、自分のそれまで信じていたことを根底から打ち破られた。これほどの無量の大菩薩に礼拝されている釈尊とは何者か。
 地涌という不思議なる「久遠の弟子」の姿を目の当たりにしたことによって、“師匠の真実は何か”“師の本当の境涯は何か”という問いにつながっていった。地涌の出現が人々に“仏陀観の大転換”を迫ったのです
 斉藤 「自分たちの考えていた世尊ではなかった。もっともっと偉大な仏様かもしれない。自分たちは師の本当の偉大さを知っていたのだろうか」と・・・。
 池田 そう。「雖近而不見」(すいごんにふけん、近しと雖も見ざらしむ)です。少なくとも、弥勒はそのことに気づいた。
 それはやがて、偉大な釈尊の弟子である自己自身への問いにつながっていったはずです。「この偉大なる世尊とともに生きる、自分とは何なのか」――と。
 人間が、自らの根源に具わる栄光へと誘われていく。それが、光輝満つ本門の展開なのです。無量無数の地涌の菩薩を呼び出すという壮大な説法によって、万人を偉大なる自己へと導いていくのが涌出品なのです