地涌の菩薩(3)

 

<動執生疑(3)>

 
地涌の菩薩の出現は、決して無秩序ではない。
勢いよく、自由奔放でありながら、なおかつ整然たる行進の姿です。
理想的な組織の姿

 

 須田 一人一人の菩薩は皆、大衆のリーダー(唱導の首)であり、それぞれ六万恒河沙の眷属(仲間)を率いています。あるいは、五万、四万、三万恒河沙から千、百、十人などの眷属を率いて出現します
 一恒河沙は、インドのガンジス河の砂粒の数です。六万恒河沙はその六万倍の数ですから、とうてい計算できません。スーパーコンピューターでも無理かもしれません。
 遠藤 眷属とは、狭くは仏の親族をさしますが、広く言えば仏の教えを受ける者をすべてさします。
 池田 そう。地涌の菩薩の出現は、決して無秩序ではない。勢いよく、自由奔放でありながら、なおかつ整然たる行進の姿です。ある意味で、理想的な組織の姿とも言える。(中略)
 須田 地涌の菩薩たちは、まず宝塔の中にいる釈尊と多宝如来のもとに詣で、次に十方の世界から集ってきた無数の仏たちの所へ行って、それぞれの仏をさまざまな形で賛嘆します。無数の地涌の菩薩が無数の仏にあいさつするのですから時間がかかります。経文には「五十小劫」という長い長い時間がかかったが、釈尊の神通力で、会座の人々には「半日」のように思わせたとあります。
 遠藤 よほど充実した時間だったのでしょうね。退屈だったら一時間でも無限のように感じます。

 

荘厳の師弟の姿に驚く

 

 池田 地涌の菩薩が最高の儀礼によって仏を賛嘆するのは、じつは師弟不二の「永遠の生命」を賛嘆しているのです。“永遠即今”の充実した一瞬一瞬を生きているのが仏です。地涌の菩薩も、本当は“永遠即今”を生きる仏です。「仏」と「仏」の出会いです。だから楽しいのです。だから五十小劫も長くはないのです。
 このあと、地涌の菩薩を代表して、四人に大リーダーたち――上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が釈尊と対話を始めるが、その話題は民衆救済という大目的についてだね。
 須田 はい。彼らは釈尊に合掌して。こう語りかけます。「世尊よ、少悩少病であり、安楽であられるでしょうか」と。(中略)
 池田 釈尊の身を心から案じている姿が表現されている。釈尊に甘え放題で、時には疑ったり文句を言ったりする声聞たちとは態度がまったく違うようだね。
 次元は違うが、私もいつも戸田先生のご健康を気にかけていた。会えば必ず、お疲れではないか、ご気分はどうか、それはそれは気を使ったつもりです。そして、戸田先生はそれ以上に私の健康を気遣ってくださった。汗が出ている時など、「大、早くシャツを着替えなさい。カゼをひく」と言ってくださった。ありがたい師匠でした。
 地涌の菩薩と釈尊の会話では、お互いの心と心が通い合っている様子がうかがえる。一幅の名画のようだね。
 須田 ええ。釈尊は、「決して疲れてはいない。衆生を導くのは易しいことです。この諸の衆生は、過去世以来、私の化導を受けてきたのです。皆、私の教えを聞いて、仏の智慧に入ったのです」と答えます。大丈夫、心配するな、必ず皆を救ってみせるから――という大音声です。
 地涌の菩薩は釈尊をたたえます。「すばらしいことです。偉大な英雄である世尊よ。私たちも随喜します」と。随喜の心を起こす地涌の菩薩たちを釈尊もまた、たたえています。
 遠藤 こうした対話を見て、驚いたのは、ずっと法華経の会座にいる弟子たちです。今まで見たことのない光景が次々繰り広げられる。宝塔が出現し、十方の諸仏が集い、虚空会が行われた。これ自体、未曾有のことです。それでも何とか理解し、信じようとした。私でしたら、ここに至って頭の中が真っ白になったかもしれません。