観心本尊抄

  第二十五章 文底下種三段の流通を明かす(下)

 第三に本尊を詳らかにす

 末法今時には色相荘厳の仏像は一には道理、二には三徳の縁が浅いこと、三には人法勝劣のあることから本尊とあおぐべきではない。
 初めに道理とは、一に釈尊は脱益の教主である。釈尊が久遠五百塵点劫の昔に下種し、その衆生は大通仏に結縁し、その機が純熟して仏の出世を感じたので、釈尊は本より迹を垂れインドの王宮に誕生し、出家して樹の下に坐して成道し、世情に随順して色相を荘厳し、爾前迹門を説いてさらにその機縁を熟し、ついで本門寿量を説いて下種結縁した衆生をことごとく脱せしめたのである。ゆえに色相荘厳の尊形(そんぎょう)は在世脱益の教主であって、末法下種の本尊ではないのである。二に、三徳の縁が浅いことを示すならば、在世は本已有善の機類である。ゆえに色相荘厳の仏に対してその縁がもっとも深い。いま末法には本未有善の衆生であるから、色相荘厳の仏に対しては三徳の縁が浅い。ゆえに末法今時のわれらの本尊とはならないのである。三には人法勝劣があるゆえに。本尊問答抄にいわく「本尊とは勝れたるを用うべし」(三六六㌻)と、天台云く「法は是は聖の師・生養成栄・法に過ぎたるはなし」と、妙楽云く「四不同と雖も法を以て本と為す」と。このように色相荘厳の仏は劣り、法がすぐれているから、色相荘厳の仏を本尊にすることはできないのである。
 次に文証を引くならば、法華経に云く「復(ま)た舎利を安(やす)んずることを須(もち)いず」(『妙法蓮華経並開結』三六三㌻ 創価学会刊)と、天台云く「更に生身の舎利を安(お)くべからず」と、妙楽云く「生身の全砕は釈迦・多宝の如し」と、法華三昧に云く「必ず形像舎利を安(お)くべからず」と、本尊問答抄に云く「汝云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり」(三六六㌻)と、門徒存知にいわく「五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉る可し……日興が云く、聖人御立(ごりゅう)の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(一六〇五、一六〇六㌻)等云云、このように釈迦の仏像を本尊としてはならない証文が分明なのである。
 さて次に日蓮大聖人をもって末法の御本尊となすべきことを示すならば、
 初めに道理として、一には下種の教主なるが故に。末法は本未有善の衆生である、ゆえに不軽菩薩が大乗をもって強毒(ごうどく)したように、日蓮大聖人が妙法五字をもって下種すべき時期である。ゆえに聖人知三世事に「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継(しょうけい)するの故に」云云(九七四㌻)と。二には三徳の縁が深き故に。開目抄にいわく「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(二三七㌻)と。三には人法体一なるが故に。御義口伝にいわく「自受用身とは一念三千なり」(七五九㌻)、伝教いわく「一念三千即自受用身」、妙楽いわく「本地の自行は唯円と合す」、諸法実相抄にいわく「妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ」(一三五八㌻)。
 つぎに文証を引くならば、百六箇抄にいわく「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某(それがし)なり」(八六三㌻)と、開目抄の始めにいわく「一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂(いわゆる)主師親これなり」(一八六㌻)、終わりにいわく「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(二三七㌻)と。その外これらの例文は無数であるから略することにする。
 つぎに御抄の一片を曲解して釈迦仏造立の根拠とするものがある。これは身延山等の類であって末法の仏法を破る者であるから、一括してその邪義を破折しよう。いまその曲解の文を引くと、
 一に、本尊抄の「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず」(二五三㌻)との文の、〝本門本尊〟の四字を色相荘厳の仏像となす者がある。
 これは当抄の大意に迷う者で、この文意は南岳や天台がただ理具を論じて観心本尊を行じておらない、事行の南無妙法蓮華経とは即観心であり、本門の本尊とは即本尊である、ゆえに本門本尊の四字は正しく当抄に明かすところの日蓮大聖人御建立の御本尊である。どうしてこれを色相荘厳の仏であるといえようか。
 二には三大秘法抄にいわく「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初(そのかみ)より以来此土有縁深厚(しどうえんじんこう)本有無作三身の教主釈尊是れなり」(一〇二二㌻)と、この文の釈尊が色相荘厳の仏像であると迷う者がある。
 この文の意は「我が内証の寿量品に建立する所の本尊は即久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊是れなり」との釈尊と同じである。五百塵点劫の当初とは総勘文抄の「五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐(おわ)せし時」(五六八㌻)の当初と同意であって、すなわち久遠元初のことである。久遠元初の本有無作三身とはすなわち日蓮大聖人であらせられ、けっして色相荘厳の釈迦仏ではない。
 三には報恩抄にいわく「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂(いわゆる)宝塔の内の釈迦多宝・外(そのほか)の諸仏・並(ならび)に上行等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし」(三二八㌻)との文に迷う者がある。
 この文は、また人法一体の深旨を顕わす明文である。そのゆえは初めに人に約してこれを標し「教主釈尊」等といい、ついで法本尊に約して釈するに「所謂宝塔の内の釈迦多宝」等というのである。すなわち所謂以下の釈文は御本尊のご説明であって当抄に明かすところの十界互具一念三千の御本尊と少しも異ならないのである。報恩抄の文は少ないがその意はまったく同じである。さて標文に「本門の教主釈尊」というのは、即ち是れ久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊である。この本因妙の教主釈尊の当体はまったく是れ十界互具・一念三千の妙法五字であるから「本尊と為すべし」とおおせられているのである。インド応誕の釈迦はすなわち宝塔の中に座していることを考え合わすのならはっきりするであろう。
 四にはもししからば本因妙の教主釈尊を本尊とすべきであって、どうして日蓮大聖人が本尊であろうかと思って、本因妙の教主釈尊と日蓮大聖人の結びつきに困っている者がある。
 本因妙の教主釈尊とはすなわち日蓮大聖人の御事である。ゆえに百六箇抄にいわく「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某(それがし)なり」(八六三㌻)と、また報恩抄にいわく「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる(流布)べし親の徳、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり師の徳、無間地獄の道をふさぎぬ主の徳」(三二九㌻)等と明らかに三徳をお述べになっている。ゆえに本尊と崇(あが)めるのである。先に述べたことであるが、重ねて教主釈尊について述べるならば、教主釈尊とはその名が一代に通ずるけれども、その体に六種の不同がある。それは蔵教の釈尊・通教の釈尊・別教の釈尊・迹門の釈尊・本門の釈尊・文底の釈尊である。「名同体異」のご相伝がこれである。第六の文底の釈尊とは、すなわち日蓮大聖人であらせられる。「名異体同」のご相伝がこれである。
 五には四条金吾釈迦仏供養事(一一四四㌻)、日眼女造立釈迦仏供養事(一一八七㌻)、真間釈迦仏供養逐状(九五〇㌻)等に釈迦仏の造立を賛嘆しているのをとって色相荘厳の釈尊を造立することが御聖旨であると誤解している者がある。
 これについては三意がある、一には一機一縁のためであって、相手によって一時的に許されたもので、これらの仏像はみな一体仏である。日興上人は五人所破抄において「一躰の形像豈頭陀(ずだ)の応身に非ずや」(一六一四㌻)と破折しておられる。たとえば大黒天を供養するのを場合によって許されたようなものである。二には阿弥陀仏の造立に対して許された。すなわち日本国中はみな阿弥陀の像を立てて信仰している時に釈迦仏を造立することは、権仏を捨てて実仏たる釈迦へ帰り法華経に帰する第一歩であるゆえに称歎されたのである。三には内証の観見に約すゆえ。すなわち日蓮大聖人の御内証においては、この釈迦の一体像がすなわち己心の一念三千自受用身の本仏であるから用いられたものである。また唱法華題目抄には「本尊は法華経或は題目を書いて本尊として又釈迦如来・多宝仏を書いても造っても法華経の左右に之を立て奉るべし」(取意)(一二㌻)等とおおせられているのは佐渡已然の御書だからである。
 六には宝軽法重事にいわく「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像を・かきつくれる堂塔いまだ候はず」(一四七五㌻)と。この釈迦仏を色相荘厳の仏像と解している者がある。
 この文も、また人法体一の深旨を表わす。下種の法華経・わが内証の寿量品の釈迦仏の形を文字にこれを書けば即大曼荼羅となり、木画にこれを作れば日蓮大聖人の御形となる。ゆえに書き造るとおおせられるのである。しかも、この御抄の始に人軽法重の事が述べられてあり色相荘厳の人は法に劣ることが明らかである。
 七には本尊問答抄には「法華経の題目を以て本尊とすべし」(三六五㌻)とおおせられているが、なぜ日蓮大聖人の御影像を像立するかについて一言つけ加えておくならば、法華経の題目とは日蓮大聖人の御事であり、日蓮大聖人の御当体は即ちこれ法華経の題目である。諸法実相抄にいわく「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ」(一三五八㌻)と。またこの点については末法相応抄にくわしく日寛上人がお説きになっている。ただし日蓮大聖人の御像を像立するとはいえ、その御胸の中に御曼荼羅をかけまいらせなくては、人に魂のないように仏像とは申されないことを知らなくてはならない。されば、日蓮大聖人の御像としてたんに御姿を刻んだものは安置すべきでない。(追記参照)

〈追記〉
     宗門における御影像安置の誤謬を糺す(上)

 講義の最後、七項に戸田先生が大聖人の御影像について「なぜ日蓮大聖人の御影像を像立するか」として、像立することを前提とされたのは、当時の宗門に一定の配慮を示したものである。
 この御影像とは、現在の若い学会員はほとんど知る由もない。というのは、学会において御影像を安置することは、今日に至るまで絶えて無かったのであり、今後とも無いのである。
 私の記憶の中に、僧俗和合の当時、正宗寺院に参詣したとき、御本尊の正面に御影像が安置されていた光景がある。その時は、手前の御影像をなるべく見ないように、目の焦点を背後の御本尊に合わせて勤行・唱題をしていた。一言でいうと、御影像が邪魔になって、御本尊が見え辛かったのである。
 いったん話題を変えると、仏・菩薩の形像は、正法像法の時代において本尊と崇められた。その流れでいえば、大聖人は末法の御本仏であらせられ、ゆえにその形像は御本尊となる道理である。
 しかし、大聖人は観心本尊抄に
「此れは但(ただ)題目の五字なり」(二四九㌻)
と末法の本尊の御正意を明かされ、
 日興上人も富士一跡門徒存知の事に
「唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(一六〇六㌻)
と教示されている。
 すなわち、正像の本尊と末法の本尊とを、厳然と区別されたのである。
 講義文に諸文を列記される通り、法華経を唯一と尊崇する正しき仏法の流れにおいては、「必ず形像舎利を安(お)くべからず」(法華三昧)等と、本尊である法華経の経巻のもとには、形像(画像や造仏の類い)や仏舎利を安置してはならないとされている。
 御本尊は中尊の「南無妙法蓮華経」(法)と「日蓮」(仏)との人法一箇にあらせられる。御仏壇の内は一国土をあらわし、ここに御影像(仏)を立てれば、二仏並存となり、一仏一国土の原理に反する。
 ところが、大聖人唯一の法流たるべき富士門流においては、いずれの時代からか御本尊と御影像を一対のように安置するようになった。
 それは人情としては、大聖人への思慕の情、その表現と言い得ようが、正しき仏法からの逸脱に変わりはない。このことが、その後の宗門における本尊義を大きく歪めるものとなっていく。
 この乱れた本尊義が後代に出現した魔僧日顕の利するところとなり、あらたに創作された邪義を基とする日顕宗を立ち上げ、とどのつまり日蓮正宗の伝統教義は法脈もろとも崩壊することとなる。委細は次回に詳説する。
 戸田先生はこうした危険性を見抜いていたからこそ、就任前の日達法主にそのことを示唆したのである。以下の文を参照されたい。

 私が東洋哲学研究所の学術大会で牧口常三郎について発表し、御影本尊論に言及したとき、出席していた篠原誠に、戸田城聖が御影本尊について何か言ってなかったかと質問したことがあった。すると彼は、池袋の寺院で戸田が住職も同席して青年部の幹部と懇談していた折、戸田が「創価学会の本尊には本当に功徳がある。」という話を強調していたので、創価学会の本尊も日蓮正宗の本尊も同じなのに不思議なことを言うなと思って、篠原がどういう意味かと尋ねたところ、住職に向かって、戸田は「お前のところの本尊はよく見えないじゃないか」と日蓮御影の陰になって、曼荼羅本尊が見えないことを指摘し、後に寺院から日蓮御影が撤去されたというエピソードを紹介してくれた(小野不一によれば、寺院は常在寺で、住職は後の管長となる細井日達だそうだ。)(2011/9/16付加)。このエピソードは、戸田城聖が日蓮御影を本尊とすることに対して無知だったわけではなく、否定的見解を持っていたことを示していると私は考えている。
(漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する(1)より一部抜粋)

 また御影像が信徒の目を狂わせていた例として、当時の本山に勤務していた僧侶の証言がある。

 当時、寂日坊や観行坊では、御本尊の前に大きな御影(みえい)が安置されており、奥にある御本尊は暗くてよく見えなかった。皆、教学を学んでいるわけではないから、御本尊の大切さが分からない。自然と、御影をありがたく拝むことが大事だと思うようになって、仏像についても手を合わせることが当然のようになったものと思う。そして、自宅にも仏像を祀る人も出てくるようになってしまったのである。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 第三文明社発行より一部抜粋)

 本山における本尊雑乱がもたらした弊害であるが、宗門にその自覚はなかった。しかし学会は、本尊義に関しては厳格であり、御仏壇に御本尊以外の形像を入れることは絶対に無いのである。
 本尊義に乱れがあれば、謗法の道を転がり落ちることは必至である。かつて思想弾圧が行われた戦時下には、宗門は軍部におもねり、数多もの謗法を積み重ねた。その罪の深さは、身延派の比ではない。
堕落した宗門を尻目に、唯一の法灯を護ったのが学会である。大聖人に続き仏法に殉じた人こそ牧口会長であり、戸田理事長(当時)であった。宗門は、学会幹部の死身弘法の振舞いに対し、〝宗門を軍部政府の弾圧に巻き込む危険行為〟と誹謗し、破門したのである。大聖人の仏法を厳護するよりも、宗門の消長が先であった。邪教たるゆえんである。大聖人の門下たる我ら学会員は、この事実を忘れず、絶対に許してはならない。