観心本尊抄

第二十五章 文底下種三段の流通を明かす(上)

本文(二四九㌻一〇行~二四九㌻一七行)
 迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、再往之を勘(かんが)うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す。
 問うて曰く其の証如何(いか)ん、答えて曰く法師品に云く「而(しか)も此の経は如来の現在すら猶怨嫉(おんしつ)多し況や滅度の後をや」宝塔品に云く「法をして久住(くじゅう)せしむ乃至来れる所の化仏(けぶつ)当(まさ)に此の意を知るべし」等、勧持安楽等之を見る可し迹門是(か)くの如し。
 本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す所謂(いわゆる)一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶(とも)に末法の始を以て詮(せん)と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種(しゅ)なり彼は一品二半此れは但(ただ)題目の五字なり。

通解
 つぎに文底三段の流通を示そう。法華経迹門十四品の正宗の八品(方便品より人記品まで)は、一往これを見ると二乗をもって正となし、三周の説法があって二乗がことごとく成仏している。しかして菩薩凡夫は傍となって、その席につらなっているにすぎない。しかし再往これをかんがうるならば凡夫を正となし、しかも在世の声聞が得道するよりも仏滅後の正法・像法・末法をもって正となし、正像末の三時の中にも末法の始をもって正が中の正となす、このように法華経迹門は一往は在世の声聞のためであるが、再往は仏滅後末法の凡夫を正が中の正となして、すなわち迹門は凡夫のために説かれたものである。
 問う、その証はどうか。答えていわく法師品にいわく「而も此の法華経を行ずるならば釈迦仏の現在にすらなお怨嫉が多く九横の大難に遭(あ)ったが、まして仏滅後にはさらに大きな怨嫉をうけ大迫害をうけるであろう」と説かれ、迹門の流通分で滅後を主体として論じている。宝塔品にいわく「仏は滅後の弘通を勧進して諸大菩薩に滅後弘通の誓いを立てよと述べ、これひとえに仏は正法を久しく住せしめんと欲するのであり、宝塔品に来集したところの分身の諸仏は、まさに此の意を知るべし」と説いて、同じく流通にあたっては在世の諸衆を傍らとし、滅後の「令法久住」を正意としているのである。勧持品には、同じく諸大菩薩が三類の強敵を忍んで仏滅後の弘通を誓い、安楽行品には弘通の規範として四安楽行に住すべきことを説いている。迹門はこのように滅後末法のために説かれたことが明らかである。
 つぎに法華経本門は誰人のために説かれたかを論ずるならば、一向に末法の初をもって正機となしている。すなわち一往これを見るときは久遠の仏種を下種となし、中間の大通仏から前四味迹門を熟となし、本門にいたって等覚妙覚の位に入り一切衆生がことごとく得脱している。しかしこれは文上の一往の見方であって、再往これを見れば迹門とは異って本門は序正流通ともに末法の始めをもって詮(究極の正意)としている。すなわち迹門は流通の段から立ちかえってみれば文底の流通分となるのに対し、本門は最初から序正流通ともに末法を正機とし文底の流通分として説かれている。
 さて釈尊在世の本門と末法の始めの本門は、いずれも一切衆生がことごとく即身成仏する純円の教である。なに一つとして闕(か)くるところがない。ただし在世の本門と末法の本門の相違をいうならば、在世は脱であり末法は下種であり、在世は一品二半、末法はただ題目の五字である。

語訳
怨嫉(おんしつ)
 反発し敵対すること。特に、正法やそれを説き広める人を信じられず、反発して誹謗したり迫害したりすること。「妙楽云く『障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く』等云云」(開目抄上・二〇一㌻)と。

法をして久住(くじゅう)せしむ
 令法久住(りょうぼうくじゅう)。法華経見宝塔品第十一の文。「法をして久しく住せしめん」(『妙法蓮華経並開結』三八七㌻ 創価学会刊)と読み下す。未来永遠にわたって妙法が伝えられていくようにすること。

等妙
 等覚(とうがく)・妙覚の位。菩薩の修行の段階における最高位。等覚は五十二位のうちの第五十一位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。妙覚は、等覚位の菩薩が四十二品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即(くきょうそく)にあたる。

講義
 本節は法華経文上の迹本二門はともに文底の流通分に属することを明かしている。
 迹門にも本門にもそれぞれ序分・正宗分があるのに、どうして文底の流通分に属するかというと、文上から論ずれば序正がはっきりして流通分とはならないのであるが、文底下種の正宗に望むと文上の三段は通じてみな流通分に属するのである。おおよそ流通とは在世正宗の法水を滅後末代に流れ通わすゆえに流通という。ところが、いまの文は迹本ともに再往は滅後末法のために説かれているというからこれは流通分である。
 御義口伝にいわく「惣じては流通とは未来当今の為なり、法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり、其の故は妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり、品品の法門は題目の用(ゆう)なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや」(七六六㌻)と。
 このように迹本二門ともに流通に属するならば本迹一致と立ててさしつかえないかというと、けっして本迹一致ではない。同じく流通に属していても本迹の勝劣は分明である。ゆえに日蓮大聖人は「今の時は正には本門・傍には迹門」(四菩薩造立抄・九八九㌻)とおおせられ、また「正には寿量品……傍には方便品」(薬王品得意抄・一四九九㌻)等とおおせられているのである。
 また迹門十四品は文底下種三段の流通分となることをはっきりするならば、
 百六箇抄に「前十四品悉(ことごと)く流通分の本迹、如来の内証は序品より滅後正像末の為なり」(八五七㌻)と。先に迹門は序分に属し小邪未覆であるといいながら、どうしていままた流通に属させるかというと、迹門において二意があることを知らなくてはならぬ。一には迹門当分で本門の顕われる以前の迹門であり、これは本無今有の法で「天月を識(し)らずして但池月を観ず」の類で序分の非に属するのである。二には本門が家の迹門であり、これは本有常住の法で「本より迹を垂れ月の水に現(うつ)る如し」で月も常住・影も常住となるのである。そこで先には迹門当分の辺をもって序分となし小邪未覆と破したのであり、いまは本門が家の迹門をもって流通に属するから、末法を正となすというのである。
 しかし、本門が家の迹門は本有常住の法であるとしても本有の勝劣が厳然と定まっている。もしこれを知らないならば彼の一致の迷いに同ずることになる。十法界事に「天月水月本有の法と成りて本迹倶(とも)に三世常住と顕るるなり」(四二三㌻)とおおせられて、本有常住といえども、天月と水月とに本迹をはっきりと立て分けられている。また十章抄に「設(たと)い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず」(一二七五㌻)等とおおせられるのがこれである。またこの迹門流通の文は、初めに在世に約して方便品から順次にこれを見れば二乗を正とし、菩薩凡夫を傍としている。これは、菩薩凡夫はむしろ成仏が易く二乗は困難であったからである。すなわち菩薩は法華已前に種子を開顕したり、凡夫は法華已後に開顕する者があったりするから二乗を正とし菩薩凡夫を傍としたのである。このことは迹門脱益三段に論じられているが、この菩薩凡夫の種子の覚知は目的でないから「此れは仏の本意に非ず」とおおせられるのが、すなわち菩薩凡夫を傍とする所以(ゆえん)である。されば「但毒発等の一分なり」とあって、けっして菩薩を教化して得道せしむるのが目的ではなかったことがわかるのである。但二乗は法華に来至(らいし)して三周の説法を聞き三千塵点劫の種子を顕示する、これが迹門三段の仏の本意である。よって二乗を正とするのである。この傍正の立て方は得脱の上に約したのであって経文の上に従ったものではない。経文のしだいに従った御書には、法華取要抄に第一に菩薩・第二に二乗・第三に凡夫となっている。
 経に「菩薩は是(こ)の法を聞いて 疑網は皆な已に除く 千二百の羅漢は 悉く亦(ま)た当(まさ)に作仏(さぶつ)すべし」(『妙法蓮華経並開結』一四四㌻ 創価学会刊)といって菩薩と羅漢(二乗)を並べ挙げている。しかしこれは仏の正意でないことは先の文で明らかである。
 つぎに「再往之を勘うれば」とて滅後の流通を示されている。いわゆる迹門十四品を序品第一から第二第三等と順次にこれを読めば、在世の二乗を正としているし、これを逆次に安楽行品第十四から第十三・十二と立ちかえって読めば、通じて滅後の正像末を正としている。しかも別しては末法の初めをもって正のなかの正としているのである。この引証として法師品と宝塔品の文を引かれているが、その中で法師品の「況んや滅度の後をや」とあるのは況んや正法の時をや、況んや像法の時をや、況んや末法の時をやと読むべきである。ゆえに怨嫉にしても法をして久しく住せしめんと欲するにしても、在世よりも滅後の正法時代・正法よりも像法・像法よりも末法に仏の正意があったのである。
 このように滅後末法をもって正の中の正とするから迹門十四品を末法下種の流通段とするのである。
 つぎに「本門を以て之を論ずれば」からは本門十四品がみな文底三段の流通分となることを明かされているのである。
 百六箇抄にいわく「本果妙の釈尊・本因妙の上行菩薩を召し出す事は一向に滅後末法利益の為なり、然る間日蓮修行の時は後の十四品皆滅後の流通分なり」(八六四㌻)と。
「一向に末法の初めを以て正機となす」とは、迹門が一往は在世のため・再往は末法のためであるのに比し、本門は初めより一向に末法のためとの意である。
 また「久種を下種と為し大通前四味迹門を熟と為し本門に至って等妙に登らしむ」とは、これ一類に約すべきでなく、いっさいにわたると約すべきである。さればいっさいにわたって久遠に下種し本門で等妙に登るのである。先の迹門でも一往再往とし、その一往の義もいっさいにわたっていたが本門もそのとおりで、本抄の下の文に「病尽(ことごと)く除癒(のぞこりい)えぬ等云云、久遠下種・大通結縁乃至前四味迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門に於て得道する是なり」(二五一㌻)とあって、いっさいにわたるのである。
 しかるに、釈尊在世の二乗は大通仏の時に下種し迹門に得脱した人であるから、この文は一類に約すべきであるとして、日澄の決疑抄には「四節の中の第一節・本種現脱の一類」と主張している。しかしこれは大なる僻見(びゃっけん)である。
 二乗が大通に下種し迹門で得脱するとは天台第二の教相・化導の始終不始終の相であり、当家の第一法門たる権迹相対の説相である。これは一往であって天台の第三教相・当家の第二法門本迹相対の時は、二乗は五百塵点劫下種・大通前四味迹門を熟益となすのである。また迹門得脱とはこれ当分の得脱であって跨節(かせつ)の得脱ではない。なぜなら久遠の下種を明かしていないから得脱できるわけがない。よって迹門を熟益に属すのである。まして四節の中の第一節は序品得脱の人であるのに日澄は本門得脱の人と混乱している。これは日澄がすでに天台の法門も知らないことから起っているので、まして当家神秘の法門を知っているわけがない。
 また、本門得脱において等妙に登らしむとあるが、法華経文上においては得脱は等覚位までであって妙覚位は説かれていない。しかるに大聖人は「等妙に登らしむ」とおおせられている。これは文底の意であって、文底の意ではみな名字妙覚位に入るのである。すなわち寿量品を聞いた大衆は文上の寿量品を聞き、等覚位に登ったことになっているが、文上を聞くとともに文底の神秘を悟り、ことごとく久遠元初に戻って名字妙覚の位に入ったのである。妙楽が「脱は現に在りと雖(いえど)も具(つぶ)さに本種を騰(あ)ぐ」(※)といい、当家深秘の口伝に「等覚一転名字妙覚」とあるのがこの意である。
〈追記※ 妙楽大師の法華文句記巻一上の文。「脱」は脱益(だっちゃく)の義で、衆生に下種された仏の種子が調養(じょうよう)されて実を結び、仏の境地を得ること。「現に在り」とは、現在に釈尊にあって法を聞いて得脱すること。「本種」とは、仏が衆生の心田におろした成仏の根本の種子をいう。「謄」とは高くあがる、のぼる、はねあがる等の意。すなわち文の意は「この衆生が得脱した功徳は現に釈尊にあい、その法を聞いたことによって現れたものだが、より詳しくみると、それは久遠の昔に法華経の下種を受けていたのが浮かび上がってきたものなのである」ということ。ただし再往、日蓮大聖人の仏法においては寿量文底下種の法華経、久遠元初の南無妙法蓮華経の下種による、という意なのである〉
 以上、一往は正宗を明らかにしたのであるが「再往これを見れば」とは、末法の流通を明かして本門が法の流通分であることを示しているのである。「迹門には似ず」とは、迹門はそれぞれの項で論じたように流通段からたち還ってみたときに末法の流通分になるのに反し、本門は序分からしてすでに末法の流通分となるのである。涌出品でまず本化地涌の大菩薩が出現するのは一向に末法流通のためであるのによってわかるであろう。
 また本門は序正流通ともに末法の始めをもって詮となす、とあるが、この本門はもし文底下種の本門であるとすれば第五の三段の正宗分となり流通分とはならないし、もし文上の脱益本門であるとすれば在世の脱益の為の説法であって「末法を詮と為す」はずがないことになる。よって末法の流通となる本門は文底下種の本門であるのか、または文上脱益の本門か、そのいずれかというに、文上脱益本門に二意があることを知らなくてはならない。一には脱益当分と二には種家の脱益である。いまは種家の脱益本門をもって流通段に属するのである。

   ┌ 文上脱益本門 ┬ 脱益当分(在世衆生のため)
   │        │       天月を知らず池月を観ずる
本門 ┤        └ 種家の脱益(末法の流通段)
   │                天月を知って池月を観ずる
   └ 文底下種本門               天月を観ずる

 天月と池月にたとえるならば文底下種の本門は天月であって第五の三段の正宗分であり、文上脱益の本門は池の水に映った月である。しかして脱益当分は天月を知らないでただ池月のみを観ずるようなもので、種家の脱益は本より迹を垂れというように月の水に現(うつ)る時、天月を知って池月を観ずるようなものである。
 このように同じ水月であっても天月を知らない場合と天月を知ってからの場合とでは大きな相違があるように、同じ脱益本門であっても文底を知らない場合と知ってからとは重大な相違がある。
 このように法華経の迹門本門ともに文底下種三段の流通分となることが明らかであるのに、古来の学者はこの意義を知らないで種々なる己義(こぎ)を構えているが、いまその二、三をここに挙げることにする。
 日忠抄に云く、三世倶に上行付属の辺を流通に属す云云。
 破決第四に云く、常の如く十一品半を流通段と為す云云。
 日我抄に云く、一品二半の寿量の序正の時は流通の沙汰之無し、脱益の寿量品は在世正宗にて終るが故なり等云云。
 このような日蓮宗学者の謬解は、まったく日蓮大聖人の御意に背反する曲解である。文底下種三段の始には「又本門に於て序正流通有り」となっているから流通の沙汰がないわけがない。はっきりと流通分をお示しになっているのにそれが見えないのである。まして、また脱益の寿量品は在世の正宗に終わるけれども、内証の寿量はまったく末法のためである。どうして内証の寿量の流通段を明かさないわけがあろうか。
 また正しく文底下種三段を明かすならば正宗は前に示したように久遠元初の唯密の正法たる三大秘法の御本尊である。しかして惣じて一代五十余年の諸経・十方三世の微塵の経々・並びにあらゆる宗派の経典の解釈等等、これらのものをことごとく序分となし、あるいは流通分となすのである。すなわちいっさいの経教の体外(文底下種を開会しない)の辺を序分となし体内(文底下種を開会した)の辺を流通分となすのである。いまの文にただ法華経の本迹二門を流通となすとは文は略されているのであって、いっさいの経教をことごとく流通に属すとはつぎの御抄にお示しのとおりである。
 曾谷入道等許御書にいわく
「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」(一〇三八㌻)
ゆえに吾人はあらゆる学問・あらゆる哲学また世法・国法に通じて末法の民衆救済のために一閻浮提唯一の本尊を流布しなければならないと叫ぶものである。
 また、御本尊を根底にして初めていっさいが活かされるのである。妙法を根底にしないあいだの知識、学問、哲学、思想等は、人々の幸福にはつながらず、いわば「死の法門」である。だが、ひとたび、大仏法によってそれらを用いるならば、それらのいっさいは、あたかも、生気を失った草木が、ふたたび、日光を浴び、水を得て、はつらつと成長しはじめるごとく、妙法の光を浴び、妙法の智水を得て、ことごとく「活の法門」となるのである。
 御書にいわく「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(一二九五㌻)と。
 創価学会の目的は、あくまでも、化儀の広宣流布であり、すなわち妙法を根底として、あらゆる文化の華を咲かせていくのである。
 また「在世の本門と末法の始は一同に純円なり……此れは但題目の五字なり」とは、在世と末法の本門の相違を判じ、末法に流通する御本尊の正体を示して観心の本尊を結成するのである。いまこの文を拝読するのに次のようになる。

 在世の本門 …… 一同に純円なり ……… 一往名同
 但し彼は脱 …… 但題目の五字なり …… 再往体異

 この文に「在世の本門」というのは第四の三段文上脱益の本門である。「末法の初」とは即久遠元初であり「久末一同の深旨」よりすれば第五の三段・文底下種の正宗・末法の本門である。よって「初」の字は「本門」と読むべきことに留意せられたい。
「一同に純円」とは、
○在世本門の教主は、久遠実成の仏にして、始成正覚の方便を帯びない
○末法本門の教主は、久遠元初の名字の凡夫にして、色相荘厳の方便を帯びない
このように人に約した場合、在世の教主も末法の教主も、ともに方便を帯びることなく即身成仏の仏身であるから「一同に純円なり」というのである。
 また、法に約せば、
○在世の本門の所説は、十界久遠の三千にして、本無今有の方便を帯びない
○末法の本門の所説は、不渡余行の妙法にして、熟脱の方便を帯びない
 このように在世の本門と末法の本門は、一往これを見る時に等しく純円でともに完全無欠の教法である。しかし再往これを見る時はその体が異なるのである。なぜこのように一往再往と分けるかといえば、まず一往の名同を示すのは再往の体異を示すためなのである。たとえば玄文第二に爾前の円と法華の円との相違を示すために、「此の妙・彼の妙・妙の義殊なることなし、但(ただ)方便を帯するか方便を帯せざるかを以て異と為すのみ」といっているように、同じく円教といってもその名は同じであるが、方便を帯するか帯しないかによって爾前の円と法華の円は大きく相違することを示しているのである。
「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」とは、在世の本門と末法の本門との体異を示しているのである。
○彼は脱此れは種なり …… 彼は脱益の仏・此れは下種益の仏(能説の教主)であって脱は劣り種は勝れるとの勝劣の義を含んでいる。
○彼は一品二半此れは但題目の五字なり …… 所説の法体はまた一品二半と題目の五字の相違があり、これにまた化導の始終を含んでいる。
 ところが古来の学者は、本門は仏も法も同体であって利益に脱と下種の相違があるとしているが、これが今日当家以外の邪宗の義である。日辰も「本同益異」といっている。これらの義こそ大謗法の藍觴(らんしょう)(追記参照)であり種脱を混乱する邪義の根源である。いまつぎのように三段に分け、一に文相を詳(つまびらか)にし、二に種脱を詳にし、三に本尊を詳にして邪義を挫(くじ)くとともに正義を示すことにする。
〈追記〉
「藍觴(らんしょう)」とは物事の起こり。始まり。起源。揚子江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎない、と「荀子」にあるのが語の由来。